紫式部は平安時代の女性で、「源氏物語」の作者として知られる人物です。
中級貴族である藤原為時の娘として978年に誕生したと言われていますが、諸説があって生没年ははっきりとしていません。
また「紫式部」は父が「式部大丞」という地位にあったことに由来する名称で、本名は不明です。
当時はこの階級の女性についての詳細な記録を残す習慣はなかったため、不明なところが多い人物でもあります。
父の為時は著名な詩人であり、優れた漢詩を作ったことで注目され、その能力を買われて越前守に任官された、という逸話があります。
そして娘の紫式部にもその知識を教授していました。
そのため、紫式部は当時の女性としては珍しく漢籍に明るく、「日本書紀」などの古典にも通じ、文学に関する豊富な素養を持っていました。
「紫式部日記」の中で清少納言を「さほど漢字に詳しくないのに得意げになって書き散らしているが、その文字は間違ったものが多い」と批判していますが、それは自身の教養から生じる批判だったのでしょう。
998年に山城守・藤原宣孝と結婚して娘の大弐三位(だいにのさんみ)を出産しています。
しかし夫はかなりの年長であったため、1001年には死別しています。
寡婦となった後、1005年ごろから藤原道長の娘で、一条天皇の中宮(妻)となっていた藤原彰子に女房として仕えます。
この場合の女房は、家庭教師や秘書、乳母と言った役割を果たす、ある程度の身分を持った能力のある使用人のことを指します。
紫式部はその文学的な才能をもって、彰子の家庭教師となっていました。
これ以前にも、藤原道長の妻・源倫子(彰子の母)に仕えていたという説もあり、藤原道長の一家とのつながりが深かったようです。
(道長の妾になっていたという、真偽不明の話もあります)
彰子には他にも赤染衛門や和泉式部といった、当時を代表する女流詩人たちが仕えており、一種の文学サロンを形成していました。
紫式部もその中の一員として和歌を詠み、源氏物語を執筆するなどしています。
和歌も達者で、「めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに 雲がくれにし 夜半の月かな」が「小倉百人一首」に採用されています。
彰子には1012年まで仕え、1020年ごろに亡くなったと言われています。
源氏物語について
源氏物語は紫式部が藤原彰子に仕えていた1008年ごろからに世に出るようになり、この時点で相当部分が完成していたと言われています。
400字詰め原稿用紙に換算すると2400枚になり、500名もの人物が登場し、70年に及ぶ時が流れる大河小説です。
天皇の子でありながら臣籍降下し、源氏姓となった光源氏を主人公とし、その栄華と出家、そして子孫たちの人生について描いています。
史実では源高明という人物が臣籍降下をして源氏姓を賜っており、彼がモデルになっているという説があります。
紫式部は藤原氏の人物ですが、藤原道長の妻は源氏の出身でしたので、道長夫妻と関わりの深い紫式部が源氏を物語の題材として取り上げるのは、不自然なことではありません。
光源氏の妻として「紫の上」という女性が登場し、彼女の名が「紫」式部の名称の元になっています。
(元は「藤式部」という名でした)
全部で54帖で成立しており、光源氏の多様な恋愛遍歴と、栄華を極めていく前半生を描く第一部、やがて女性たちが去り、無常を知り出家する後半生の第二部、源氏没後の子孫たちの生涯について描く第三部で構成されています。
物語としての筋立てや構成、心理描写の巧みさ、文章の質の高さなどから、現代においても高く評価される作品となっています。
江戸時代になると絵入りの本が作られ、ある程度裕福な庶民たちにも読まれるようになっていました。
大正期以降には、与謝野晶子や谷崎潤一郎、田辺聖子、橋本治、瀬戸内寂聴などの作家たちが現代語訳や翻案などに取り組んでおり、「あさきゆめみし」などのマンガの題材になったりもしています。
全編を紫式部ひとりが書いたのかは不明で、他者によって追記された箇所がある、後半は娘の大弐三位が引き継いで書いたのでは、といった諸説があります。
昔は著作権という考えがなく、複数の人の手によって追記・改変されてひとつの物語として成立するのが一般的でしたので、そういったことが行われていたとしても不思議はありません。
原文や与謝野晶子の現代語訳は、青空文庫で入手可能です。


