文化露寇とゴローニン事件、高田屋嘉兵衛の活躍について

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文化露寇(ぶんかろこう)とは、1806〜7年にかけて、蝦夷(北海道)の近辺にロシア軍が攻撃をしかけてきた事件です。

これを命令したのはレザノフというロシアの外交官で、元々は平和的に通商を求めて来航をしていました。

しかし、当時の幕閣がレザノフに乱暴な対応をして、追い払うように命じたために関係がこじれ、ロシアの攻撃を招き寄せることになったのです。

この時の戦いで、日本の軍勢はロシアに敗北し、幕府の権勢が揺らぐ結果を招きました。

この文章では、そんな文化露寇のあらましと、以後に続いたゴローニン事件、そして日本とロシアの和解をもたらした、高田屋嘉兵衛(かへえ)の活躍についても書いてみます。

文化露寇のきっかけを作ったレザノフの肖像

ロシアとの最初の接触

ロシアと日本との最初の交渉は、1792年に行われています。

この年にロシアの使節、アダム・ラスクマンが漂流民たちを連れて来日しました。

この漂流民のうちのひとりが大黒屋光太夫で、彼は女帝・エカチェリーナ2世に謁見し、帰国の許しを求めたことで知られています。

エカチェリーナ2世は光太夫たちを送り返し、日本との通商を求める親書を届ける任務を、ラスクマンに課しました。

ラスクマンは陸軍の軍人で、漂流民となっていた光太夫を保護し、エカチェリーナ2世との謁見の実現に尽力した人物です。

ラスクマンは皇帝の命を遂行するため、根室に来航しました。そして徳川幕府に対し、漂流民を引き渡し、皇帝からの信書を日本の統治者に渡したいと申し出ます。

この時に幕政を主導していたのは老中の松平定信で、彼はひとまず漂流民を受け取ることにしました。しかし、親書の受領は断ります。そして、どうしても交渉がしたいのであれば、外交の窓口である長崎に回航するように伝えよと、現地の役人に指示を出しました。

松平定信はロシアとの交渉に乗り気であったようで、使節を丁重に扱うようにとも通達しています。

ラスクマンはその後、箱館に入港しますが、そこで幕府の役人から、長崎以外では親書を受領できない旨を伝えられました。

このため、ラスクマンは光太夫らを船から降ろして引き渡すと、長崎への入港許可書を受け取り、ロシアに帰国しました。

箱館から長崎まではかなりの距離がありますので、ひとまず断念したようです。

こうして日本とロシアの一度目の接触は、平和的に終了しました。

光太夫は帰国後、貴重な海外知識の持ち主として扱われ、洋学者たちにの質問に答え、その発展に貢献しています。

ラスクマンは外交を進展させ、日本に関する資料や、物産を持ち帰ったことをエカチェリーナ2世から称賛され、大尉に昇進することができました。

この時点では、ロシアと日本との間に、速やかに友好関係が築かれる可能性があった、ということになります。

二度目の使節としてレザノフが来航する

そして1804年になると、ラスクマンが受け取った入港許可書を携えて、ニコライ・レザノフが日本に来航します。

レザノフはロシアの外交官で、アメリカへの植民事業を統括する実業家でもありました。

子どもの頃に5カ国語をマスターしており、日本に来航する際にも、あらかじめ日本語を習得していたほどの、語学に秀でた人物です。

この頃のロシアの皇帝は、エカチェリーナ2世からアレクサンドル1世に代替わりしていました。レザノフはこの新しい宮廷の中に入り込み、侍従長という要職を得ています。

そして露米会社の経営者の娘と結婚し、実業家の地位も手に入れました。

この会社はアラスカの植民事業を推進しており、ラッコなどの動物の毛皮を獲得し、それを売りさばいて大きな利益を出しています。

レザノフはその事業の経営者だったのですが、ひとつ大きな問題を抱えていました。

寒さが厳しいアラスカでは食糧の調達が困難で、ロシアの移民もアラスカの先住民も、慢性的な食糧難に悩まされていたのです。

そこで日本との通商を開始し、食糧を仕入れてアラスカまで輸送する体制が構築されれば、この問題が解決できるだろうと期待されていました。

このため、レザノフはロシアを出航し、大西洋を南下し、南米を経由し、さらに太平洋を越えるという、長大な航路を通って、はるばる日本にまでやって来たのでした。

以前のラスクマンの来航の際に、幕府から好感触を得ており、交渉をすれば日本との通商が開始できるだろうと、レザノフは楽観していたと思われます。

日本にしても、食糧の輸出によって利益が得られますので、普通に考えれば好ましい話であったからです。

しかし、その思いは裏切られることになりました。

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