土井利厚が乱暴な対応を命じる
ロシアでも政権が変わっていたように、日本の幕府も、外交の担当者が松平定信から土井利厚に変わっていました。
1804年の9月にレザノフは長崎に来航し、以前に受け取っていた入港許可書を提出します。通商を求める皇帝の親書を受領するように、幕府に求めました。
この時に幕府の内部で議論が行われ、土井利厚は儒学者の林述斎に意見を求めます。
林述斎は、ロシアとの通商は、幕府が長く守ってきた鎖国の方針に反するものであり、拒絶するべきだと進言します。
しかしながら、入港許可書は与えているのだから、レザノフを丁重に扱いつつ、日本が鎖国体制を敷いていることを説明し、理解を求めるしかない、とも回答しました。
林の意見はもっともなものでしたが、土井はこれを聞き入れず「レザノフを手荒く扱い、腹を立てさせれば、二度と日本に来る気にはならないだろう。もしもロシアがそれを理由にして攻め込んで来たとしても、日本の武士がロシア軍に遅れを取るはずもないので、大丈夫だ」などと主張し、それがレザノフへの対応方針として、決定されてしまいました。
この結果、レザノフは半年もの間、長崎で交渉を続けたあげくに、通商を拒絶されています。
それだけでなく、レザノフは滞在中に病気にかかり、長崎で治療を受けることになったのですが、そこで囚人同様の扱いを受け、屈辱を与えられました。
ロシアの正式な使節で、しかも貴族の地位にある者にそのような扱いをしたわけですので、当然のことながら、外交問題に発展する事態となります。
このような、土井の無知で傲慢な対応がレザノフの怒りと、ロシア軍による攻撃を招き寄せることになりました。
レザノフが皇帝に上奏し、日本への攻撃が開始される
レザノフはその後、アレクサンドル1世に対し、「日本は武力をもって開国させるしかない」と上奏し、日本への攻撃許可を求めました。
そして部下のフヴォストフ大尉に対し、蝦夷(北海道)周辺への攻撃命令を出します。
しかし、アレクサンドル1世はこの上奏を受け入れそうになかったため、レザノフは後にこれを撤回し、フヴォストフにはアメリカでの別の任務を与えました。
当時は欧州でナポレオン戦争が始まっていた時期ですので、ロシアはアジアに軍事力を振り向ける意図はなかったのだと思われます。
それでも、フヴォストフはそのまま独断で日本への攻撃を開始しており、この結果、ロシア政府の意向とは異なった形で、ロシア軍と日本軍との戦いが行われることになりました。
攻撃が始まった頃にレザノフは、メキシコを支配するスペイン政府との外交交渉を行っており、日本の周辺にはいませんでしたので、事態を把握していなかったと思われます。
こうして1806年の9月11日に、ロシア軍の攻撃が開始されました。
まず、樺太の久春古丹(クシュンコタン)にロシア兵30名ほどが上陸し、アイヌ人の子どもを拉致し、米や雑貨などを略奪しました。そして、家屋や漁船などに火を放つなどし、好き放題に暴れ回っています。
やがてロシア軍は子どもを解放して撤退しましたが、船が焼かれたため、住民たちはしばらく渡航手段を失ってしまい、これが幕府に知らされたのは、翌1807年の4月になってからでした。
幕府はこの事態を受け、新たに松前奉行という役職を新設し、蝦夷防衛の指揮を執らせます。
そして津軽藩、南部藩、庄内藩などの東北の諸藩に出兵を命じ、3000の武士が蝦夷の防衛任務に就くことになりました。
この事件は当時の年号から、「文化露寇」と呼ばれています。
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