文化露寇とゴローニン事件、高田屋嘉兵衛の活躍について

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松前奉行がゴローニンの釈放を求めるも、幕府は拒否する

リコルドが奔走していた頃、ゴローニンは松前に護送され、そこで松前奉行の取り調べを受けていました。

そこでゴローニンは、先の攻撃はロシア政府の意向によるものではなく、自分はフヴォストフとは関係ない、と釈明します。

松前奉行の荒尾成章は、ゴローニンの主張は事実だろうと判断し、幕府に報告します。そしてゴローニンの釈放を求めましたが、幕府はこれを拒否しました。

ゴローニンはロシアの軍人ですので、その自己弁護だけでは信用できない、というのが幕府の主張でした。これにはもっともな面があったと言えます。

こうしてゴローニンはしばらくの間、抑留されることになります。荒尾はゴローニンを疑っていませんでしたので、やがて牢獄から出され、武家屋敷に住まわされるようになり、待遇が改善されていきました。

しかし、解放される見込みが立たないことにゴローニンたちは不安を感じ、脱走して船を奪い、ロシアに帰還することを計画します。

ゴローニンたち6名は1812年の3月に屋敷を脱走し、山中を走破しようとしました。しかし、食糧が調達できず、飢えに苦しんでいたところを、住民に発見されて捕縛されます。

そして再び松前に戻され、逃げ出せぬよう牢獄に入れられました。

一方で、幕府は戻ってきたゴローニンたちに対し、通訳にロシア語を教えるようにと要請しており、ただの罪人としては扱わなかったようです。

それ以外にも、間宮林蔵という、樺太の探検事業で知られる人物もゴローニンたちを訪問し、酒をふるまうなどして交流を行っています。

しかしゴローニンは、「間宮は自分たちをスパイであると疑い、幕府にそう報告していた」と記録しており、決して信用してはいなかったようです。事実、間宮は幕府の命令を受けて松前に派遣されており、ゴローニンたちの実態の調査に来ていたようです。

間宮はゴローニンたちに、測量用具の使い方を質問していますが、これによって本当に測量に来ただけなのかを、確かめようとしたのだと思われます。

ともあれ、こうしてゴローニンたちの抑留生活は長引いて行きました。

リコルドの再来航と、高田屋嘉兵衛の捕縛

一方でリコルドは捕虜や漂流民たちを伴い、1812年の8月に、国後島へと来航しました。

そして漂流民とゴローニンの交換を求めますが、現地の役人は漂流民は受け取ったものの、ゴローニンたちは既に処刑した、と偽りを述べ、リコルドを退けようとします。

リコルドは文書を発行して処刑の事実を証明するように求めますが、これが得られなかったため、役人の言葉を信用せず、ゴローニンはまだ生きているのだろうと判断します。

そしてさらに情報を得るために、国後島から出航すると、付近を航行していた和船を拿捕しました。

この船は、高田屋嘉兵衛が運行していた観世丸でした。

嘉兵衛は国後島と択捉島の航路を開拓し、海運業や漁場の経営で巨万の富を得ていた商人です。

この時には干魚の運搬と公文書の輸送のため、国後島に向かっているところでした。

嘉兵衛はリコルドから事情を聞くと、ゴローニンがまだ生存していることを伝えます。

そしてこの問題を解決するため、ロシアの基地があるカムチャツカに同行する意志があることも、リコルドに伝えました。

嘉兵衛はただの商人ではなく、択捉島の開発事業の成功によって、幕府から御用船頭としての地位を与えられ、苗字帯刀も許されていた人物です。これはつまり、準武士とも言える身分を得ていたことになります。

そういった背景を持っており、蝦夷在住の役人たちとも親しかったため、ゴローニン事件にも詳しく通じていたのです。

こうして外交問題に自主的に関与することを決めた嘉兵衛の登場によって、事態が進展することになります。

リコルドは嘉兵衛の見識や、軍船に拿捕されたにも関わらず、冷静沈着に対応する胆力に感嘆し、嘉兵衛を頼ることにしたようです。

嘉兵衛は弟に「事件を解決するために、交渉をしてくる」と手紙を送り、積み荷をディアナ号に移すと、5人の船員たちとともに、カムチャツカに向かいました。

高田屋嘉兵衛の肖像

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