文化露寇とゴローニン事件、高田屋嘉兵衛の活躍について

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カムチャツカで解決法が模索される

こうした経緯であったため、カムチャツカで嘉兵衛たちは自由な行動を許されています。
嘉兵衛はリコルドの宿舎に同居し、現地の住人たちに、運んできた酒をふるまうなどして、親交を深めました。

さらに嘉兵衛は、カムチャツカ在住の少年と親しくなってロシア語を学んでおり、交流を重ねつつ、事件を解決するための下地を作っていきます。

やがて嘉兵衛は一冬をかけ、リコルドと言葉を通じ合わせつつ、話し合いを続けました。嘉兵衛は後に「冬の間に、二人だけの言葉を作って交渉した」と語っており、日本語とロシア語を折り混ぜて話をしたのだと思われます。

そして、ゴローニンの捕縛はフヴォストフの蛮行が原因なので、日本に謝罪の文書を提出すればゴローニンは解放されるだろう、という見通しをリコルドに伝えました。

やがて冬を越した頃、一緒に連れてきた船員たちのうち、3名が病死してしまいます。カムチャツカは極寒の地で、日本人にとっては生存に厳しい環境だったようです。

嘉兵衛は自身の健康にも不安を感じ、リコルドに早期に行動を開始するようにと、強く促すようになりました。

これを受け、カムチャツカの長官に任命されていたリコルドは、その資格をもって謝罪文を作成し、日本との交渉を再開することを決意します。

交渉が始まる

嘉兵衛が予測した通り、幕府はロシアとの紛争の拡大を望んでおらず、フヴォストフの攻撃は、ロシア政府の意向ではなかったことが証明されれば、ゴローニンを釈放しよう、という方針を取ることにしていました。

先の文化露寇では敗北を重ねていましたので、戦いに発展させるほど事態をこじらせるのは避けたい、という思いもあったでしょう。

ちょうどそのタイミングで、1813年5月に嘉兵衛とリコルドが、ディアナ号で国後島へと来航します。

嘉兵衛はまず、船員たちを国後の陣屋に送って事情を伝えた後、自身も陣屋に赴き、これまでの経緯を詳しく説明しました。

こうして日本とロシアとの交渉の契機が作られます。
そしてリコルドは、自身が作成した謝罪文を提出しました。しかし、リコルドは元はゴローニンの部下で、事件の当事者であるため、この文書だけでは不足だと幕府は通達します。

これを受け、リコルドは他のロシアの高官から謝罪文を得るため、いったんオホーツクに戻ることにしました。

こうして嘉兵衛の手引きによって、ロシア側が平和的に事態を収めたいという意図を持っていることが伝わったため、幕府も積極的に交渉に乗り出すようになっていきました。

幕府からすれば、ロシアの謝罪と弁明が得られれば、権威が損われずにすみますので、願ってもない展開だったと言えます。

リコルドが去った後、幕府の役人と共に、嘉兵衛は松前に移動します。そして、松前奉行・服部貞勝に状況を報告しました。

するとゴローニンたちは牢から出され、引き渡しのために箱館に移送されます。

こうして事件の解決が、間近に迫ることになりました。

箱館で交渉が行われ、ゴローニンたちが解放される

リコルドはカムチャツカに帰還した後、イルクーツク州やオホーツク港の長官たちに、松前奉行あての文書を用意してもらいました。

そして、それを携えて9月8日に室蘭に到着します。これを嘉兵衛が出迎え、9月17日には箱館に入港しました。

嘉兵衛は交渉が成立するようにと尽力を続け、日本とロシアの間を周旋し、会見の準備を整えます。

嘉兵衛は元々、蝦夷の役人たちに顔が利く立場でしたので、これはすんなりと進展していったようです。

そして9月21日に会見が行われ、松前奉行所の高橋三平に、リコルドは携えた文書を渡しました。

これが松前奉行の手に渡り、ロシア側の釈明が受け入れられ、ゴローニンたちが釈放されています。

こうして2年にも渡って続いたゴローニン事件が、ついに解決しました。

9月29日にディアナ号は箱館を出航し、嘉兵衛の見送りを受けて帰国の途についています。

解放されたゴローニンの肖像

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