ゴローニンとリコルドは称賛を受けるも、嘉兵衛は取り調べを受ける
帰国したゴローニンとリコルドは、日本との軋轢を平和的に解決した功績が認められ、2階級の特進を受け、ともに海軍中佐に昇進しています。
特にリコルドは、その慎重な対応が称賛を受けました。
さらに両者には、1500ルーブルの終身年金が与えられます。
当時の1ルーブルは、現代の価値にして2000〜3000円程度ですので、年間で300〜450万円の収入が、生涯に渡って得られた、ということになります。
一方で嘉兵衛は罪人扱いをされ、しばらくの間、松前奉行所から監視を受けることになりました。
当時の幕府の法では、外国に渡航するのは犯罪であったためですが、深刻な外交問題の解決に尽力した人物に対するものとしては、いかにも幕府の因循さが感じられる扱いだったと言えます。
翌1814年の3月になって、ようやく松前奉行所で無罪が認定されます。これはカムチャツカに渡ったのが、リコルドに拿捕されたのがきっかけだったと証明されたからです。
そして5月には、ゴローニン事件を解決した褒美として、5両が嘉兵衛に渡されました。
これは現代の価値にして数十万〜百万円程度のもので、ゴローニンやリコルドの受けた褒賞に比べると、いかにも過小でした。
幕府からすると、正式な武士ではない嘉兵衛が外交問題の解決に活躍したことを、おおっぴらに認めると、武士が最上であるとする身分制度を揺るがすことにつながりますので、あまり顕彰したくなかったのでしょう。
このように、幕府からは決してよい扱いは受けませんでしたが、嘉兵衛の名はロシア側にも記録されており、日本とロシアの危機の解決に尽力した、優れた人物であるとして、歴史に名を残すことになります。
その後、嘉兵衛は故郷の淡路島に戻ってから、港湾の整備や灌漑事業などに私財を投じています。これが徳島藩主の蜂須賀治昭から称賛され、300石の藩士並の待遇を受けることになりました。
この事跡に見られるように、嘉兵衛は単なる商人ではなく、公共への貢献意識が強い人物で、それゆえにゴローニン事件にも、積極的に関わることにしたのでしょう。
リコルドが拿捕した船が、たまたま嘉兵衛のものであったことが、事態の平和的な解決を促進したことになります。
幕府による商業と外交の抑圧
こうして文化露寇から始まった、日本とロシアの外交問題が解決されました。
幕閣の失策から始まった事件を、商人である嘉兵衛が鎮めたわけで、まことに珍しい事態だったと言えます。
一方で、この事件に幕府の凋落と、商人階級の勃興の兆しを見ることもできます。
後に高田屋は、幕府にロシアとの密貿易の疑いをかけられ、資産を奪われて没落してしまいました。
その頃には嘉兵衛は没し、代替わりしていたのですが、これは嘉兵衛の築いた高田屋の権勢を幕府が警戒し、押さえ込みを図ろうとしたことが影響しています。
もしも嘉兵衛が幕末か明治期に活動していたら、もっと広い範囲で活躍し、高田屋も現代に残っていたかも知れません。
商業が発展すると、農業からの税収に頼る幕府の実力が相対的に低下することになります。このために幕府は時折、商人たちの力を抑え込もうと、財産を没収する措置をとっていたのです。
高田屋もまた、この商業の抑止政策によって没落させられたのだと言えます。
その上、幕府は鎖国をしていましたので、ロシアとのつながりを持つ高田屋の存在は、懸念材料になっていたのでしょう。
このような幕府の閉塞的な方針によって、日本の経済や外交の発展は妨げられていたのですが、後にペリーの来航によってそれが打ち崩され、やがては明治維新を迎えることになります。
文化露寇以降の事態は、やがて訪れる幕末という情勢の、先駆けになっているのだと言えます。

