豊臣

戦国時代

石田三成が忍城を攻略できなかったワケ

豊臣秀吉は1590年に天下統一の事業を完成させるべく、関東の北条氏の討伐を実施しました。そして北条氏の本拠である小田原城を15万の大軍で包囲しつつ、別働隊に関東の諸城の攻略を命じます。この流れを受け、石田三成や大谷吉継、長束(なつか)正家と...
織田

徳川家康はいかにして井伊直政を育成したか

優れた戦国大名の元には優れた人材が集うものですが、最終的に覇者となった徳川家康にも、優れた家臣たちが仕えていました。その中でも本多忠勝・榊原《さかきばら》康政・酒井忠次・井伊直政は「四天王」と呼ばれ、特に秀でた能力を持っていたことで知られて...
織田

徳川家康はどうして小牧・長久手の戦いで羽柴秀吉と互角に渡り合えたのか?

徳川家康は1584年、織田信雄とともに羽柴秀吉に戦いを挑みました。この時の戦力は、徳川・織田連合軍が3万、羽柴軍が10万で、大きな差が開いていました。にも関わらず、家康は小牧・長久手の戦いで勝利し、秀吉と正面から戦いながらも、敗退しなかった...
織田

滝川一益 信長の軍団長として活躍した、知勇兼備の名将の生涯について

滝川一益(かずます)は織田信長に仕え、その重臣として活躍した人物です。戦闘に強く、調略や外交もこなせる優れた武将で、主に伊勢(三重県)方面の攻略で活躍しました。やがて大名になり、関東を統括する軍団長に任命されるほどに出世しますが、信長が本能...
織田

羽柴秀吉はどうして清洲会議や賤ヶ岳の戦いで、柴田勝家に勝利できたのか?

織田信長が本能寺の変で急死した後、織田氏の内部では、羽柴秀吉と柴田勝家の抗争が発生しました。秀吉は、信長を殺害した明智光秀を討った功績によって、それまで筆頭家老であった勝家よりも有利な立場を手に入れます。そして信長の遺産の分配を話し合う「清...
戦国時代

小早川隆景 「毛利の両川」として、元就や輝元を支えた名将の生涯について

小早川隆景は毛利元就の三男として生まれ、毛利氏の勢力の拡大と維持に大きく貢献した人物です。水軍を統括して厳島の戦いなどで活躍した他、外交や統治面でも優れた働きを見せています。天下人となった豊臣秀吉からは為政者として大きな評価を受け、独立した...
戦国時代

豊臣秀次はどうして秀吉によって抹殺されたのか?

豊臣秀次は秀吉の養子となって関白の地位についた人物です。元々は秀吉の甥でしたが、秀吉に実子がいなかったことから重用されるようになり、成長するにつれて順調に地位が高まっていきました。そしてついに天下人の後継者に指名されて関白に就任しますが、秀...
織田

浅井長政はどうして織田信長を裏切って朝倉義景に味方したのか?

北近江(滋賀県)の大名・浅井長政は織田信長と同盟を結び、京への上洛に協力しました。しかし信長が越前(福井県)の朝倉義景を攻めたことをきっかけに決裂し、裏切って敵に回っています。そして石山本願寺や武田信玄と手を結んで包囲網を形成し、信長を大い...
戦国時代

加藤清正 熊本城を築いた「清正公さん」の生涯について

加藤清正は豊臣秀吉に仕え、肥後(熊本県)の大名になった武将です。軍事だけでなく財務や内政、築城も得意としており、肥後の発展に大いに貢献しました。民衆からの支持を受けて死後に神格化され、「清正公(せいしょこ)さん」と呼ばれて親しまれ、今でも信...
織田

柴田勝家 信長の筆頭家老として活躍した猛将の生涯について

柴田勝家は戦国時代に織田信長の重臣として活躍した武将です。「日本で最も勇猛果敢」と評されたほどに戦場での働きが優れていました。信長の父・信秀の代から織田氏に仕えていましたが、一時は信長と敵対したため、用いられなかった時期もあります。しかし天...