井伊直政 赤備えを率いて活躍した「井伊の赤鬼」の生涯について

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近江佐和山城主となる

関ヶ原の戦功によって直政は近江(滋賀県)佐和山城主となり、領地は18万石に加増されました。

これは石田三成の旧領にあたります。

京都に近く、いざという時に朝廷の護衛の役目を果たすため、このような配置になりました。

また、同時に西国の諸大名への抑えを果たすことも期待されており、家康から、またしても重要な役目を任されたことになります。

その死

このようにして直政は働き続けましたが、関ヶ原の戦いから2年後、1602年になると体調が悪化し、そのまま死去しています。

傷を養生する間もなく働き続けたことによる、過労が原因だと言われています。

家督は次男の直孝が継いでおり、こちらは大坂の陣で敵将・木村重成を討ち取るなどの活躍を見せています。

やがて領地には彦根城が築かれて佐和山城は廃城となり、新たに彦根藩30万石が形成されました。

こうして井伊氏は直政の死後もさらに発展し、徳川氏の筆頭家臣の立場を保ち、大老や老中といった幕閣を輩出する家にもなりました。

直政への評価

これまで見てきたとおり、直政は軍事・外交・調略に秀でており、人柄もよかったことから家康に信頼され、ほとんど休みなく重要な仕事を果たし続けました。

この結果、若くして家康の筆頭家臣の地位につき、井伊家を繁栄させますが、同時に自身の健康を損なってしまうことにもなりました。

毛利氏の筆頭家臣・小早川隆景から、「直政は小身だが、天下の政道を担えるほどの器量がある」とまで賞賛されており、もっと長生きをしていたら、さらなる活躍を見せたことでしょう。

直政は容儀に優れ、人格も傑出していたことから、肥後(佐賀県)の大名・鍋島勝茂から「百世の鑑とすべき武士だ」とまで評価され、「葉隠」の中でも取り上げられています。

このように、家康だけでなく、様々な立場の武将たちからも高い評価を受けており、誰の目からみても一目置かざるを得ない実力を備えていたことがうかがえます。

「汝に休息なし」という、優れた人物ほど周囲から期待され、休みなく働かざるを得なくなる、という意味の言葉があるのですが、直政の場合はまさにこれに当てはまっており、その生涯の過ごし方を決定づけたのだと思われます。