kenjo@管理人

新田

足利尊氏の家紋「二つ引両」の由来と歴史について

足利尊氏たかうじは室町幕府を開いたことで知られる人物ですが、家紋は「二ふたつ引両ひきりょう」を使っていました。【足利二つ引両】これは「引両紋《ひきりょうもん》」に分類されており、円の中に横線が入る、シンプルな形象の紋です。他に一本線の「一つ...
織田

織田信長が第六天魔王を名のったワケ

織田信長は自ら「第六天魔王だいろくてんまおう」と名のったとされており、このために「魔王」と称されることがしばしばあります。【魔王を名のったと言われる織田信長】これは信長が1573年に、甲斐の大名・武田信玄から挑戦状を受け取り、その返書を送る...
幕府

生麦事件と薩英戦争 幕府の凋落と薩摩藩の興隆について

生麦《なまむぎ》事件は1862年に起きた、薩摩藩士によるイギリス商人の殺傷事件です。この事件は偶発的なものでしたが、これを契機として、国内情勢が大きく変動することになりました。そして翌年に薩英戦争を勃発させる直接のきっかけにもなりましたので...
天皇家

天皇家の家紋・菊の御紋の由来について

天皇家の紋章は「菊の御紋」ですが、鎌倉時代に後鳥羽《ごとば》上皇が用いたのが、その起源であるとされています。【天皇家の菊花紋章】上皇は鍛冶を好んでおり、全国から名工を集めて仕えさせ、常に身近なところで刀を作らせていました。そして上皇は、時に...
戦国時代

前田利常 あえて鼻毛を伸ばし、加賀百万石を保たんとす

前田利常としつねは、加賀百万石を築いた前田利家の四男として誕生した人物です。前田家は兄の利長《としなが》が継いでいたのですが、利長は正室とも側室との間にも、男子を得ることができませんでした。このために利常が年の離れた兄の養子となり、1605...
戦国時代

加藤光泰、おおいに怒り清正の命を救う – 文禄の役の逸話より

「豊臣秀吉に仕えていた加藤」と言えば清正が有名ですが、もうひとり、加藤光泰みつやすという武将もいました。光泰は豊臣政権下において、甲斐(かい)(山梨県)24万石の大名で、肥後(ひご)(熊本県)25万石の清正と、ほぼ同等の立場にありました。1...
織田

前田利長 過ちを責めず、長所を見て人を用いる

前田利長としながは、加賀百万石の領国を築いた利家の嫡男(ちゃくなん)で、父に劣らず武勇に優れた人物でした。その才能を織田信長からも愛されており、信長の四女・永姫(えいひめ)を正室として迎えています。主だったところでは、豊臣秀吉による九州征伐...
戦国時代

真田昌幸、兵に酒を飲ませて北条の軍勢を討ち破る – 薩埵峠の戦いより

真田昌幸まさゆきは知略に優れた戦国大名として知られていますが、元々は武田信玄に仕えていた武将でした。その時代にも鮮やかな策によって、北条氏の軍勢を討ち破る功績を立てたことがあります。この文章ではその戦いの際の、昌幸の活躍ぶりを紹介していこう...
織田

墨俣一夜城 豊臣秀吉と蜂須賀小六の出世物語

豊臣秀吉はまだ木下秀吉と名のっていた頃に、墨俣(すのまた)の地に短期間で城を築き、大いに名を上げたことがありました。当時、秀吉は織田信長に仕えており、美濃(みの)(岐阜県)の攻略戦に参加しています。秀吉は初め、信長の身辺の雑用係をしていまし...
戦国時代

加藤清正の虎退治について

加藤清正は豪傑として知られる武将ですが、朝鮮半島に渡って戦っていた時期に、虎退治をしたことでも知られています。【加藤清正の肖像画】ある時に清正の軍勢は、朝鮮の大きな山の麓(ふもと)に陣営を構えていたことがありました。やがて夜になると、山に住...