kenjo@管理人

戦国時代

石田三成と柿の逸話

【石田三成の肖像画】石田三成は1600年に、徳川家康と関ヶ原で決戦を行いました。これは家康が豊臣家から天下の支配権を簒奪(さんだつ)しようとする動きを見せたため、三成が家康を打倒して豊臣家の政権を守ろうとしたことに起因しています。三成は毛利...
戦国時代

北条氏との外交に見られる、徳川家康の忍耐強さについて

徳川家康は、強大な武田信玄に立ち向かえるほどの勇気を備えた武将でした。このために「三方ヶ原(みかたがはら)」で信玄に挑戦して大敗し、あやうく戦死しかけたこともあるほどです。しかし一方では、家康は非常に忍耐強い性格も備えており、なかなかに複雑...
戦国時代

石田三成が忍城を攻略できなかったワケ

豊臣秀吉は1590年に天下統一の事業を完成させるべく、関東の北条氏の討伐を実施しました。そして北条氏の本拠である小田原城を15万の大軍で包囲しつつ、別働隊に関東の諸城の攻略を命じます。この流れを受け、石田三成や大谷吉継、長束(なつか)正家と...
幕府

坂本龍馬と大政奉還 果たされなかった無血革命

坂本龍馬の事跡の一つとして「大政奉還(たいせいほうかん)の実現」が知られていますが、龍馬の政治的な活動においては、最も重要な案件だったと言えます。大政奉還とは、徳川幕府が日本の統治権(大政)を朝廷に返上(奉還)することをいいます。幕府は将軍...
織田

徳川家康はいかにして井伊直政を育成したか

優れた戦国大名の元には優れた人材が集うものですが、最終的に覇者となった徳川家康にも、優れた家臣たちが仕えていました。その中でも本多忠勝・榊原《さかきばら》康政・酒井忠次・井伊直政は「四天王」と呼ばれ、特に秀でた能力を持っていたことで知られて...
蝦夷

文化露寇とゴローニン事件、高田屋嘉兵衛の活躍について

文化露寇(ぶんかろこう)とは、1806〜7年にかけて、蝦夷(北海道)の近辺にロシア軍が攻撃をしかけてきた事件です。これを命令したのはレザノフというロシアの外交官で、元々は平和的に通商を求めて来航をしていました。しかし、当時の幕閣がレザノフに...
織田

徳川家康はどうして小牧・長久手の戦いで羽柴秀吉と互角に渡り合えたのか?

徳川家康は1584年、織田信雄とともに羽柴秀吉に戦いを挑みました。この時の戦力は、徳川・織田連合軍が3万、羽柴軍が10万で、大きな差が開いていました。にも関わらず、家康は小牧・長久手の戦いで勝利し、秀吉と正面から戦いながらも、敗退しなかった...
織田

比叡山は三度焼かれる – 織田信長に至る、比叡山焼き討ち事件の経緯について

比叡山・延暦寺は織田信長に焼き討ちを受けたことで知られていますが、武家との抗争はこれが初めてではなく、三度も主要な建物が焼失する事件が発生しています。比叡山焼き討ち事件は、場所が寺院であるだけに、刀や槍を持った武士たちが、無力な僧侶たちを一...
幕末

幕末年表

※日付は旧暦に準拠しています 年月日出来事1840〜42年清とイギリスの間でアヘン戦争が発生する清が敗北し、アジア圏にも西洋諸国の脅威が迫っていることが、幕閣や諸侯・知識人たちに伝わるこの影響で、佐久間象山や吉田松陰らが、西洋知識の習得の必...
足利

応仁の乱と戦国時代の始まりについて

応仁の乱は1467年から1477年まで、11年もの長きに渡って続いた内戦です。室町幕府の将軍家と守護大名、そして朝廷の公家と皇族までもが東軍と西軍に別れて抗争を繰り広げました。乱が発生した直接の契機は、実力者の細川勝元と山名宗全が対立したこ...