井伊直政は徳川家康に仕え、四天王のひとりに数えられた名臣です。
軍事だけでなく、調略や外交にも秀で、家康の天下統一に大いに貢献しました。
やがては若くして家康の筆頭家臣の地位につき、井伊家をおおいに繁栄させてもいます。
しかし関ヶ原の戦いで負傷したにも関わらず、休みなく働き続けたことで体を壊し、41才で死去してしまいました。
この文章では、そんな直政の生涯について書いてみます。
【井伊直政の肖像画】
井伊直親の長男として生まれる
直政は1561年に遠江(静岡県西部)の国人領主・井伊直親の長男として生まれました。
幼名は虎松といいます。
井伊氏は鎌倉時代の頃から、500年に渡って井伊谷(浜松湖の北の一帯)を治めていた一族です。
戦国時代になると時に独立し、時に駿河(静岡県東部)の今川氏に臣従して、その勢力を保っていました。
父が謀反の疑いで殺害される
父・直親は今川氏真の家臣でしたが、1562年になると謀反の疑いをかけられます。
直親は無実だったのですが、弁解するために駿河に向かう途中で、氏真の重臣・朝比奈泰朝に討たれてしまいます。
こうして直政は、わずか1才の時に父を失うことになりました。
そして直政もまた命を狙われますが、親族の新野親矩(にいの ちかのり)の助命嘆願によって救われました。
このように、直政が誕生した頃に井伊氏は危機的な状況に置かれており、直政の身分も安泰とはいきませんでした。
小野道好の暗躍
この頃の井伊谷では、井伊氏の家老・小野道好(みちよし)が主家からその支配権を奪ってのし上がろうと画策していました。
直親が謀反の嫌疑をかけられたのは、小野道好が今川氏真に、そのような偽りの告げ口をしたためです。
1564年になると、直政を保護していた新野親矩が戦死し、曽祖父の井伊直平も死去するなどして、井伊氏の力が弱まっていきます。
井伊氏の家督は暫定的に女性の井伊直虎が継ぐものの、小野道好の専横を抑えることができず、勢力を失っていきます。
井伊谷を失う
1568年になると、甲斐(山梨県)の武田信玄が今川氏の領国に攻め込みます。
この時に今川氏真は、小野道好に命じて直虎から井伊谷を奪い取らせました。
そして井伊谷の戦力を対武田戦に用いようとしています。
この時に直虎や直政は、井伊氏の菩提寺である龍潭寺に逃れました。
やがて再び直政の身に危険が迫ったため、出家して三河(愛知県西部)の鳳来寺に移ることで難を逃れています。
徳川家康の支援を受ける
こうして井伊谷を失った直虎は、遠江に進出してきた徳川家康に庇護を求めました。
家康は家臣に命じて井伊谷を占拠させ、小野道好を捕縛させます。
そして、かつて小野道好が無実の罪で直親を陥れたことを咎め、これを処刑しました。
こうして小野氏が排除され、直虎は家康の支援によって井伊谷の領主に返り咲くことができました。
この時から井伊氏は徳川氏に臣従し、その庇護下に入ることになります。
その後も武田氏の家臣・山県昌景によって井伊谷が占拠されて危機を迎えますが、信玄の死によって武田軍が撤退し、再び奪還に成功しています。
こうして井伊氏は直虎の元で滅亡の危機を切り抜け、直政が家督を継げる情勢が整っていきました。
家康に仕える
1574年になると、直政は父の13回忌のために遠江に帰還し、この時に祖母と母、そして直虎が相談し、家康への仕官を図ることになります。
そして1575年に家康への仕官が許され、名を井伊万千代と改めました。
そして井伊谷の領有も認められ、家康の小姓として側仕えをすることになります。
井伊氏はもともと徳川氏と縁戚関係にあり、このために家康に目をかけられ、やがて重く用いられるようになっていきます。
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