島津義弘と豊久の、関ヶ原からの撤退戦(島津の退き口)について

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捨て奸によって井伊直政を負傷させる

この時に島津軍は捨て奸(すてがまり)という撤退戦用の戦法を用いました。

これは退路に銃を持った数人の兵を配置し、敵の指揮官を狙撃してその追撃を妨げ、近くに迫られたら槍を持って突撃して死ぬまで戦う、というすさまじいものでした。

そしてこの食い止め役が戦死したら、新たにまた数人を残して死ぬまで戦わせ、を繰り返すことで、敵の追撃を遅らせ、本隊がその間に撤退するのです。

この戦法を用いた結果、追撃をかけていた井伊直政は腕を銃撃されて負傷しています。

そして本多忠勝も乗馬を撃たれて落馬するなどしており、損害が大きくなったことで、やがて家康から追撃の中止命令が出されるほどでした。

豊久が戦死する

最後には将である豊久自身も捨て奸の役を務め、13名の家来たちとともに、追いすがってくる大軍に突撃して討ち死にしています。

また、義弘の家老である長寿院盛淳(もりあつ)もまた、義弘の名前を名のって敵中に突撃し、その身代わりとなって18名の家来とともに戦死しています。

こうした甥や家臣たちの決死の奮戦のかいがあって、島津軍はわずか80名にまで数を減らされながらも、かろうじて義弘が生存したまま、大坂にまで撤退することができました。

この無謀とも言える作戦が成功したのは、島津軍の鉄砲隊の狙撃力の高さと、自分の身を犠牲にすることを厭わない、強靭な精神力を持っていたことによるところが大きいでしょう。

立花宗茂とともに九州に帰還する

義弘はこうして家臣たちの多大な犠牲の結果、九州への帰路につくことができました。

しかしその途中で筑前(福岡県)の柳川城主・立花宗茂の部隊と遭遇してしまいます。

かつて島津軍は宗茂の父・高橋紹運(じょううん)を討ち取ったことがあり、義弘はその仇の一員でもありました。

このため、わずか80名の少数で行軍する義弘は、宗茂に襲われて討たれてもおかしくない状況だったのですが、宗茂は高潔な人物であったため、「敗軍を討つのは武士のやるべきことではない」と言って仇討ちを勧める家臣たちを押しとどめました。

そして義弘と協力して九州に帰還することを申し出て来ます。

義弘はこれを受け入れ、両者は一緒に九州まで撤退することができました。

宗茂もまた西軍に属しており、帰還後に九州の東軍勢力の攻撃を受けることになるのですが、この時に義弘は援軍を宗茂の領地に派遣し、宗茂の好意への返礼を行っています。

徳川との交渉

島津氏は西軍に味方したため、領地の削減や没収などの措置を受ける可能性がありました。

事実、毛利氏は家康に内通していたにもかかわらず、戦後になると120万石の領地を30万石にまで減らされてしまいました。

家康は当初、島津氏を武力で討伐しようとしましたが、義弘が謝罪の使者を送ったために取りやめになっています。

そして義弘は和睦の交渉をするにあたって、関ヶ原で負傷させた井伊直政を交渉相手に指名しました。

直政は負傷させられたことを恨む様子もなく、これを受け入れて島津氏との交渉に取り組みます。

直政は外交に長けており、家康からの信頼が厚く、穏便な措置を取ることが多い人物でしたので、交渉相手にはうってつけでした。

こうした選択ができたのは、義弘が他家の人材の情報に通じていたことの証と言えるでしょう。

義弘自身は領内で謹慎をしていたのですが、交渉には関わりを持ち続けていたと思われます。

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