足利尊氏が将軍になり、二つ引両の使用者が増える
そして時代が下ると、やがて鎌倉幕府の勢力が衰え始めました。
すると後醍醐天皇が倒幕を計画し、各地の武士たちに自分に味方するようにと働きかけます。
これに足利尊氏が応じ、鎌倉幕府を滅ぼす戦いに参加しました。

【騎乗の足利尊氏像】
そして新田義貞もまた後醍醐天皇に仕え、同じく鎌倉幕府の打倒に活躍して、衰えた新田氏の勢力を取り戻そうとします。
その後、後醍醐天皇が権力を握るものの、報償の配分が公家重視となって不公平だっため、武士たちの不満が高まっていきます。
このため、やがて武士たちは血統がよく、人望もある尊氏を押し立てて反乱を起こしました。
この結果、皇統が後醍醐天皇の南朝と、尊氏が推戴する光明天皇の北朝に別れ、長く抗争が続くことになります。
この時に新田義貞は尊氏に対抗する意図もあって、南朝に味方して戦い続けますが、やがて敗死しており、新田氏を復興させることはできませんでした。

【新田義貞の肖像画】
尊氏はその後、征夷大将軍に就任して室町幕府を開き、家臣たちに二つ引両を下賜していきます。
この結果、細川氏や畠山氏、斯波氏などの管領家や、吉良氏や今川氏といった分家筋、東北の大崎氏や最上氏といった、足利氏を先祖とする一族に二つ引両が与えられ、数多くの大名家で用いられることになります。
もうひとつの系統の二つ引両
一方で、新田源氏である山名氏や里見氏も、二つ引両を用いています。
これは新田義貞が、ある神社の拝殿で見つけた旗に、「八幡大菩薩」の文字と、二つ引両が書かれていたことに由来しています。
【源義家の旗 八幡大菩薩の下に二つ引両が描かれている】
その旗には「八幡殿(源義家の事)、後三年の役の際に、願書とともに納められた御旗なり」と添え書きがなされていました。
新田義貞は「我が家の紋とは異なっているから使い道がない」と述べたのですが、この発見が契機となって、山名氏や里見氏はご先祖にあやかろうと、二つ引両を用い始めたのです。
このため、新田源氏と足利源氏が、ともに二つ引両をつかうという事態が発生することになりました。
足利氏と新田氏のその後
なお、新田氏の直系は義貞の死後、足利氏の追討を受けて滅亡しました。
その後、一族の岩松氏が上野で勢力を取り戻しますが、こちらもやがて没落し、江戸時代にはわずか120石の旗本として、細々と存続しています。
それでも明治維新の際に、新政府側について功績を立て、それによって新田姓に復帰できました。そして男爵の爵位を得て、ようやく家を復興しています。
足利氏も室町幕府が滅亡した後に直系は断絶しており、分家の吉良氏などが徳川幕府に仕え、旗本として家名を保っています。
なお、足利の名のりではありませんが、一族の細川氏はやがて肥後(熊本県)一国の大名となり、現代でも総理大臣を輩出するなどして、その家名を長く保っています。

【細川氏の家紋 見分けをつけるため、足利氏のものとは色の配置などが異なっている】
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