二度目の報告
その後も直政は小田原城の包囲を続けながら、家康の意図は何だったのだろうと考え続けました。
そして最初に問いかけられてから48日が経過します。その夜、直政は考えているばかりではらちがあかないと思い、もう一度橋のところに赴きます。そしてその様子をよく観察しました。
すると、この橋は桁(渡るところにかける板)が弱く、大勢が一度に急いで渡れるものではない、と気がつきました。そしてそれを家康に報告します。
すると家康は「なるほど、そうか」と言うばかりで、悪くない報告だが、それだけが言いたいことではない、というそぶりを見せます。
そもそも家康が曲輪にかかっている橋の一本を気にして、わざわざ直政にその様子を確かめさせるなど、おかしな話です。
直政も一軍を預かる武将なわけで、偵察をするだけなら、もっと身分の低い家臣に任せるはずだからです。
ここに至って直政は、「どうやら殿は、直政の手勢をもって篠曲輪を攻め落とせと示唆しているのか」と気がつきます。
橋への注意を促したのは、移動手段が脆弱なので、攻め込んでもそう簡単に城中から援軍がやってこれないことを、直政に理解させるためだったのです。
家康自身は橋を一度見ただけでそれに気がついていたのですが、これを直政を教育する機会として捉え、あえて正解を教えずに、直政が苦心して、自力でその認識に到達できるようにと働きかけたのでした。
篠曲輪の攻略
家康の意図を理解した直政は、直ちに軍勢を出動させ、夜間に手薄になっている篠曲輪を襲撃し、これを陥落させています。
夜になれば兵士の数が減るばかりでなく、暗い中でしっかりと作られていない橋を渡って大勢の援軍がやってくることもありませんので、簡単に攻め落とせたのです。
直政は戦勝の勢いをかって、隣接する曲輪をも攻め落とし、一躍勇名を馳せました。
他の大名たちの部隊はいずれも小田原城を包囲するだけで、攻めかかりもせず、その一部を攻め落とすこともできていませんでしたので、直政の存在がひときわ目立つことになったのです。
こうして直政はその名を広く知られるようになり、徳川軍の強さがますます称賛されるようになりました。
家康の教育
この事例に見られるように、家康の教育法は、正解を簡単に教えるのではなく、示唆を与えつつ、当人が自力で正解にたどり着くようにと導くものでした。
はじめから家康が、あの曲輪はこれこれこういう理由で簡単に攻め落とせるからやってみよ、と命じてしまうと、直政自身がそのプロセスを発見する機会が失われてしまいます。
このため、48日という長い時間をかけて、直政の観察力を養わせる措置を取ったのでした。
家康は機会を見つけてはこうした教育を行っていたからこそ、その家臣団が充実していったのです。
織田信長の教育
織田信長にも、これと似たような挿話があります。
信長はある時、近習の小姓(若手の家臣)たちを、一人ずつ自分の元に呼び寄せました。
そして一人目の小姓がやって来て信長の命令を待ちますが、少し様子を見てから、信長は「戻って良いぞ」と告げて退出させます。
次の小姓がやって来ますが、これもまた同じように退出させます。
それを繰り返しているうちに、ある一人の小姓が、信長の座の側にチリが落ちていることに気がつき、これを拾ってから退出しようとしました。
すると信長から「待つがよい」と呼び止められます。
信長は「そのようにして、ささいなことにも気と心を働かせるのが、武士にとって大事なことだ。周囲の様子に気を配り、人に言われずとも異常に気がつくのが、合戦に勝つために必要なことなのだ」と教え諭しました。
この場合は部屋にチリが落ちていたことに気がつき、自主的にそれを拾ったというだけのことでしたが、そのような目ざとい神経の働きが、戦場で敵の隙を発見して勝利を収めさせるのだということになります。
これは先の、小田原城にかかっていた橋の脆弱さに気がつくのと、本質としては同じ話だと言えます。
豊臣秀吉が信長の草履取りをしていた時、ある冬の寒い日に、懐に入れて温めておいた草履を信長に差し出し、それがきっかけで信長に取り立てられた、という有名な逸話がありますが、これもまた主旨としては共通する話です。
信長は自分に言われずとも、草履を温める工夫をした秀吉の気配りを評価し、鍛え上げれば武将としてものになるかもしれぬ、と考えたのでしょう。
このようないくつかの挿話から、優れた戦国大名は、家臣たちが鋭敏な神経の持ち主になって、戦いに勝利できる指揮官に育つようにと働きかけていたことがわかります。
これを実践していればこそ、信長にしても家康にしても、その勢力を伸ばすことができたのです。
大名本人が優れてるだけでは限界があり、家臣たちも優れていてこそ、大きな勢力の構築が可能になるからです。
このあたりの組織を成長させる原理は、いくら時が過ぎても変わらないだろうと思われます。