大政所の護衛を務める
家康と秀吉の戦いが集結すると、秀吉は手強い家康を政権に取り込むために懐柔をし始めます。
はじめに妹の朝日姫を家康と結婚させ、それでも家康が上洛しなかったので、今度は実母の大政所(おおまんどころ)までもを送ってきました。
そこまでされてはさすがに家康も秀吉に逆らい続けることはできなくなり、ついに上洛して臣従することを決意します。
やがて家康が上洛して秀吉への臣従を明らかにすると、大政所を秀吉の元に送り返すことになります。
この時に懇願され、直政は大政所が大坂に戻る際の護衛を務めることになります。
直政は戦場では鬼と呼ばれるような厳しい人物でしたが、平素は人当たりがよく優しい人柄で、そのあたりが大政所にも信頼されたのでしょう。
直政は手厚い警護を行って無事に大政所を送り届け、秀吉にも感謝されています。
石川数正との同席を断る
大政所を送り届けた後、秀吉から慰労のために茶席に招待されます。
すると、そこにはかつて家康の元から出奔し、この時には秀吉に仕えていた石川数正が同席していました。
これに腹を立てた直政は、「先祖から仕えた主君に背いて殿下(秀吉のこと)に従う臆病者との同席、お断り申す!」と怒鳴り、退席します。
直政の家康に対する忠誠心を示すとともに、秀吉が主催する席を出ていってしまうほどの大胆さをも示し、この行いは直政の名声をさらに高めることにつながりました。
秀吉からすれば、旧知の仲で話が弾むかと思って同席させたのでしょうが、直政の発言には驚かされたことでしょう。
また、あわよくば直政も数正と同じように、自分の家臣として取り込みたいと考えていたのでしょうが、そのもくろみが打ち砕かれたことになります。
直政が怒鳴ったのは、そのような秀吉の思惑を読み取り、帰国後に家康や徳川家臣団から、数正と同じように寝返るのではないかと、疑われないようにするための措置だったと思われます。
直政は若くして急速に出世していただけに、他の家臣たちからの妬みをかっており、家中で浮いてしまわぬようにと気遣いをする必要がありました。
家臣団の筆頭になる
家康が秀吉に臣従すると、やがて徳川氏の家臣たちに官位が授与されます。
この時に、酒井忠次らの重臣たちが諸大夫と呼ばれる低い官位にとどまる中、直政のみが侍従という、昇殿が可能な高い官位に叙任されます。
これによって直政の格式は家臣筆頭となり、藤原姓を名のるようにもなりました。
この時の直政はまだ27才で、異例の出世の速度だと言えます。
これは直政が徳川氏の一門として扱われていたことの証しでもあり、家康は能力と家柄を鑑みて、直政を引き立てていきました。
直政は寡黙な性格でありながらも、物事の判断を誤らない賢さを備えており、家康の考えに間違ったところがあると思った時には、余人のいないところで家康にもの柔らかくそれを意見するといった、配慮のできる人物でもありました。
そういったところが家康に信頼され、その相談相手にもなっていたと言われています。
直政は、まさに家康の腹心と言える存在でした。
小田原城の包囲戦で城内まで攻め込む
1590年になると、秀吉による関東の北条氏征伐が行われ、家康はこれに従軍します。
そして徳川軍は小田原城の攻囲に加わりました。
小田原城は秀吉の攻撃に備えて改修を行っており、大規模かつ堅牢な城塞となっています。
このために包囲軍は安易に攻めかからず、持久戦の構えをとります。
そんな中、直政は夜襲をしかけて小田原城内にまで侵入を果たしますが、これを成し遂げたのは包囲軍の中でも直政だけでした。
この時に北条兵400を討ち取り、この際立った武功によって、直政の名は広く天下に知られることになります。
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