井伊直政 赤備えを率いて活躍した「井伊の赤鬼」の生涯について

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12万石を与えられる

関東征伐が終わると、家康は北条氏の領地に転封となり、250万石の大大名となりました。

この際に家臣たちにも領地が配分され、直政は上野国(群馬県)箕輪(みのわ)で12万石の大名に任じられました。

本多忠勝や榊原康政といった他の四天王たちでも、与えられたのは10万石が上限であり、直政の領地は家臣団の中でも最大のものでした。

直政はやがて高崎に拠点を移し、同地が発展するための礎を築いています。

他の四天王たちとの関係

「徳川四天王」と呼ばれる重臣たちの中でも、本多忠勝は直政をライバル視しており、何かと張り合っていました。

一方で榊原康政も、はじめは対抗意識を持っていましたが、やがて直政の才能を認めて和解し、その能力を頼りにするようにもなっていきました。

直政も康政と打ち解け、軍団編成の際に、康政も同じ部隊に所属していると聞くと安堵した、という逸話が残っています。

酒井忠次は年齢が30以上も離れていたことから直政とは対立せず、康政に直政と折り合いをつけるように忠告するなどしており、年長者として融和を図っていたようです。

秀吉の死と多数派工作

1598年になると、豊臣政権を築いた秀吉が死去し、当代随一の実力者となった家康は天下人を目指すことになります。

この時に直政は豊臣家臣団の勧誘を担当し、黒田官兵衛・長政親子を味方につけることに成功しています。

黒田親子は福島正則や小早川秀秋、吉川広家など、有力な諸将とのつながりが深く、これによって2年後の関ヶ原の戦いが、家康の有利に進んでいくことになります。

直政はこのように、他の大名たちとの交際にも長けており、そのあたりが武辺者が多い徳川家臣団の中で、直政が特に重用された要因となっています。

家康からすれば、秀吉における黒田官兵衛のように、なんでもこなせる頼れる家臣だったのでしょう。

関ヶ原の戦いでの活躍

家康と石田三成の対決となった関ヶ原の戦いでは、本多忠勝と共に東軍(家康方の軍勢)の軍監に任命され、全体の指揮を取るほどの立場にもなります。

この時に直政は、忠勝と連名で京極高次や稲葉貞通、相良頼房など、美濃(岐阜県)や九州の諸将に東軍に味方するように勧誘し、これに成功しています。

関ヶ原の本戦では、娘婿の松平忠吉とともに早朝の霧の中を行軍し、遭遇した敵兵と戦い、戦端を開くきっかけを作っています。

その後は島津軍と戦い、西軍が敗れて彼らが撤退を始めたところに追撃をかけました。

この時の直政の追撃はあまりに早く、護衛隊が追いつけないほどのものでした。

島津軍は追いつめられたことで、少数の兵に銃を持たせて時間稼ぎをする「すてがまり」という兵法を用いており、直政は島津兵に狙撃されます。

そして銃弾が右腕に命中し、落馬してしまいました。

それでも追撃を継続し、島津軍の副将・島津豊久を討ち取りますが、この時の負傷が、やがて直政の命を奪うことになってしまいます。

戦後処理で活躍する

直政は関ヶ原の戦いが東軍の勝利に終わった後も、忙しく働き続けます。

西軍の総大将である毛利輝元と和平交渉を行い、周防・長門(山口県)の二ヶ国を安堵することでこれをまとめました。

この時に毛利輝元は、直政に対して「今後の御指南役をお願いする」という書状を送っており、感謝の意を述べています。

また、自身を負傷させた島津氏とも交渉を行い、こちらは薩摩・大隅(鹿児島県)を安堵し、徳川政権の支配下に組み込むことに成功しました。

それ以外には、真田昌幸・信繁親子の助命にも働きかけを行っています。

これによって、昌幸の子・真田信之が徳川家に忠誠を尽くすようになると期待してのことでした。

直政の思惑通り、この助命に感謝した信之は徳川幕府の忠臣になっており、後に譜代格として扱われるようにもなります。

このようにして、負傷後も休みなく重要な外交を担当し、徳川政権の確立のために尽力しました。

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