鎌倉幕府・北条氏の政権はどうして不安定だったのか

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泰時の死と、三浦氏の滅亡

しかし、いくら泰時が優れた人物であっても、そこには限界もありました。

それは先程から述べているように、北条氏には統治者の地位を得るための、正当性がなかったことによります。

北条氏はあくまで将軍に仕える御家人の一人であり、実力はともかくとして、立場的には横に並ぶ存在が、他にもたくさんいたのです。

泰時にしても、その官位は武蔵守むさしのかみという、地方長官程度のものでしかなく、決して突出したものではありませんでした。

江戸時代には、将軍家である徳川氏の下に、酒井氏や井伊氏など、複数の有力な譜代大名がいて、老中や大老といった地位を回り持ちにすることで、権力をその時々でわかちあっていました。

北条氏もこのような存在だったにも関わらず、ずっと権力の頂点の座を独占していました。

ですので、どうして北条氏ばかりが大きな顔をするのか、と他の氏族から不満を持たれやすくなっていたのです。

そして北条氏に挑戦したのが、頼朝にも初期から味方していた、有力御家人の三浦氏でした。

三浦氏は実力があったので、北条氏とは常に緊張感をもって対峙していました。

そしてついには、飾り物である将軍をかつぎ、その味方をすることで、北条氏から権力を奪うことを画策するようになったのです。

しかし、三浦氏の中には、北条氏との協調を重視する者もおり、その方針は必ずしも統一されていませんでした。

すると北条氏は機先を制し、三浦氏をだまし討ちにして、これを攻め滅ぼしてしまいます。

これは宝治ほうじ合戦といい、1247年に発生しました。

このころには、北条泰時は亡くなっており、彼がいなくなると、すぐに闘争が再開してしまったのです。

泰時以外の北条氏は、権力を得て、守るために、他の氏族を討つことにためらいがなく、これが他の氏族を上回る要因となっていました。

このような性質が備わったのは、元の実力が小さく、身分も低かったがゆえに、力によって他者を押さえつけることでしか、その権力を維持できないと、北条氏が判断していたがゆえでしょう。

このため、その政権運営には、常に血なまぐささがつきまとうことになります。

安達氏の滅亡

三浦氏に続いて、北条氏は有力御家人である千葉氏をも滅ぼし、独裁体制をほぼ完成させます。

しかしそれからしばらくして、今度は別の形で、他の御家人を排除する事件が発生しました。

安達氏は、頼朝が流浪していた時代から仕えていた武士で、鎌倉幕府の成立後も重きをなしていました。

そして北条氏に協力的な姿勢を取ったことで、他の御家人たちが滅んだ後も、高い地位を維持します。

しかしこの安達氏と北条氏の家来との間で、抗争が発生することになりました。

北条氏の家来は御内人みうちびとと呼ばれていましたが、彼らは北条氏の権力の拡大にともなって、幕政にも影響を及ぼすようになります。

ですが、彼らは御家人である北条氏の家来であるに過ぎず、御家人たちよりも一段下の存在でしかありませんでした。

そんな御内人たちが権力を持つようになると、安達氏が代表する御家人たちの反発は、強まっていきました。

身分が下であるはずの者たちに大きな顔をされるのは、我慢がならなかったのです。

このため、安達氏は御家人の権力を拡大するための幕政改革を実施しましたが、これによって損をすることになった御内人たちは、平頼綱よりつなを中心として、安達氏への反発を強めていきます。

ここで平氏が出てきますが、この一族の中に、泰時に仕えて功績を立てた者がいたので、北条氏から重用されるようになっていたのでした。

平清盛の孫である、資盛すけもりの子孫だという説もありますが、確証はありません。

1285年の11月になると、平頼綱とその一党は安達氏の屋形を襲撃し、当主である安達泰盛ら数十名を殺害しました。

さらには安達氏の一族500名が自害に追い込まれ、安達氏に味方していた足利氏、小笠原氏、伊東氏といった氏族も打撃を受けます。

この結果、北条氏、およびその家来の権力の強化に反発していた御家人層は衰退し、北条氏による支配体制が、より強固なものとなりました。

この事件を霜月しもつき騒動と言います。(霜月は11月のことです)

このようにして、鎌倉幕府は成立してから100年の時がすぎてもなお、暴力を伴う権力闘争がおさまらなかったのでした。

なお、平頼綱はこの後、鎌倉幕府の実権を掌握しますが、恐怖政治を行ったので、彼を恐れた執権の北条貞時によって殺害されています。

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