領地の没収と筑前への移転
秀秋は秀次事件のとばっちりを受ける形で、丹波亀山10万石の領地を没収されてしまいます。
もちろん秀秋が秀吉への謀反に加担した、などという事実はありません。
そもそも謀反自体が存在しないわけですから。
まったくの濡れ衣で領地を奪われましたが、そこに養父となった小早川隆景が手を差し伸べます。
隆景は隠居し、その所領・筑前(福岡県)30万石を秀秋に譲りました。
秀吉も領地没収の後でこれを認めています。
おそらく信任の深い隆景が秀吉にとりなしを行ったのでしょう。
隆景はこの2年後に死去していますので、そろそろ身の引き時だという自覚もあったと思われます。
隆景のおかげで秀秋はより大きな領地を預かる大名になれたわけですが、隆景には感謝しても、秀吉に対しては憎しみや怒り、そのような感情を抱き始めていたとしてもおかしくありません。
不要になったら家から出され、無実の罪で領地を没収され、といった仕打ちを続けざまに受けていたわけですから。
幼いころはよくしてもらっていただけに、その感情は複雑にねじれたものとなっていったでしょう。
その後は秀吉から付けられた家臣たちと領地の経営にあたります。
一方で、この頃から酒びたりにもなり始めたようです。
慶長の役への参加と領地の転封
1597年には秀吉の命により、朝鮮半島に渡海します。
この時の秀秋はようやく15才になっていて、この時代では初陣を迎える年頃です。
この頃に後世に伝わる「秀秋」を名のったようです。
秀吉から命じられていたのは城の普請などであり、戦場に参加したという確かな記録はありません。
実際、まだ戦場での経験のない少年が率いる軍を、いきなり激しい戦闘に参加させるようなことはしないでしょう。
翌年には帰国しますが、どういった理由でか、秀吉から領地を半分の15万石に減らされた上で、越前(福井県)に転封することを命じられます。
これはまったく不可解な命令であり、何者かが秀吉に讒言したのではないか、という噂もささやかれたようです。
戦場で軽率なふるまいがあったからそれをとがめられた、とも言われていますが、確かな資料には記録がなく、また状況からいっても考えにくいです。
自分の養子だったという経歴を持つ者に、30万石という大きな領地を与えていると、やがて秀頼から政権を奪おうなどと企むかもと、そのように秀吉が想像し、恐れたのかもしれません。
この頃の秀吉は亡くなる直前の時期ですので、気が焦ってこのような理不尽なふるまいに出たのかもしれません。
いずれにせよ秀吉個人の意識から発した処分だったため、正確な理由は誰にもわかりません。
秀秋はこの時、領地が半減したために多くの家臣を解雇せざるを得ない、という屈辱を味あわされています。
また、幼少の頃から補佐役を務めていた山口宗永が独立した大名として取り立てられ、秀秋の元を離れてしまいます。
秀秋の減封は理不尽な処分だった、というのは諸大名の思うところであったらしく、秀吉の死後には徳川家康ら五大老のはからいによって旧領・筑前30万石に復帰しています。
たいした理由もなく領地を減らされ、罰せられたわけで、この時もまた秀秋は、老いた最高権力者・秀吉の横暴に振り回されたわけです。
秀吉と、自分の身分を不安定なものにしている、その原因となっている秀頼への憎しみは、さらにつのっていったことでしょう。
そして同時に家康には恩ができました。
【次のページに続く▼】