小早川秀秋はどうして関ヶ原の戦いで東軍に寝返ったのか?

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関ヶ原の決着

小早川軍は膠着状態にあった戦場に兵を入れ、松尾山付近に陣を構えていた西軍の大谷吉継隊に攻めかかります。

いったんは大谷隊に押し戻されるものの、大谷隊の近くにいた脇坂などの諸将が連鎖的に寝返りをうち、大谷隊を壊滅させます。

これをきっかけに戦況は東軍優位に傾き、奮戦していた宇喜多、石田の軍勢も崩れ、主力決戦は一日で東軍の大勝利に終わりました。

こうして秀秋は東軍勝利の立役者となり、戦後は中国地方の岡山に移封され、55万石の大大名になっています。

黒田や福島といった功績のあった他の大名よりも領地が大きく、家康からの評価が高かったことをうかがわせます。

3才で秀吉の養子となり、初めは10万石の領地を与えられ、やがて30万石となり、そして18才で55万石の大大名の地位にまで登ったわけです。

これほど若年のうちに成功したのは珍しい、といえるほどの出世ぶりです。

しかしその生涯は関ヶ原の戦いの、わずか2年後に終わってしまいます。

死と改易

1602年、秀秋は死亡します。

この時には秀詮とさらに改名しており、これが亡くなる時の最後の名前になりました。

死因はアルコールによる内臓疾患と言われていて、酒に溺れた生活を続けていたことが命取りとなったようです。

少年期から過度な飲酒にふけっていたと当時の記録に残っています。
アルコールを過度に摂取していた原因は、その身辺の状況の不安定さから来ていた、と想像することもできるでしょう。

現代においても現実の状況の苦しさから酒に逃げる、というのはよくある話です。

平たく言えば、秀吉の仕打ちによってグレてしまった、ということなのかもしれません。

戦場での勝利も、もたらされた多くの領土も彼の心を慰めることはなかったようで、そのようにして死去した後、小早川家は跡継ぎがいなかったことで改易(領土を没収)され、なくなってしまいました。

跡継ぎがいなければ改易、というのは徳川政権の間ずっと続いた規則なのですが、小早川家はその適用第一号となりました。

養子を迎えて継承させる、といった措置が行われなかったことから見ても、家康は豊臣家と縁の深い大名である小早川家を、いい機会だと思って潰してしまったのかもしれません。

関ヶ原の功績により領土こそ大きなものをもらっていましたが、信用はされていなかったのでしょう。

秀秋の生涯は、秀吉の養子として育ち、大きな領土を与えられ、しかしその身分も名前も次々変転させられるものでした。

その結果として秀秋は豊臣家滅亡への扉を開いたわけですが、それは老いた秀吉の横暴なふるまいが、豊臣家に仇となって返ってきただけだ、と見ることもできるかと思われます。

ともあれ、わずか20才で死去してしまったことで、その事績は「関ヶ原で東軍に寝返った」という一点のみが後世に語られることになってしまいました。

秀吉によってもたらされた幸運は、最終的には秀秋を不運な生涯へと導いたようです。

その後の豊臣家と小早川家

豊臣家はその後、秀頼が成人するものの、1615年になすところなく家康によって攻め滅ぼされています。

秀次を粛清し、秀秋を粗略に扱った結果がそのように収束しました。

仮にその時まで秀秋が生きていたら、どのようなふるまいに出たでしょうか。
おそらく秀頼を助けることはなかったでしょうが、それでもやはり頭も心も悩ませられたことでしょう。

小早川家は長らく断絶状態にありましたが、徳川家の支配が終わった明治時代になってから毛利本家が願い出て、勅命(天皇の命令)によって再興されています。

毛利家からの養子が当主になったということです。