由井正雪の乱(慶安の変)が発生したワケ

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金子半兵衛

また、忠弥の他には金子半兵衛という弟子がいました。

こちらはその来歴が不明で、元々は毛利氏に仕える武家の出身だった、武芸者だった、刀剣販売業者だった、などの諸説があります。

いずれにしても、正雪から信頼を受けていたのは確かで、彼は大坂における同志たちの指揮官に任じられました。

その他にも大勢、正雪の同志はいたのですが、まず重要なのは、この両者なのだと言えます。

それ以外には、幕府の鉛硝蔵奉行である河原勘右衛門かんえもんもまた、その立場ゆえに重要な存在でした。

河原は幕府の弾薬を管理する役目についており、火薬庫を爆破したり、諸大名の屋敷に爆薬を投じて乱入する、などの計画は、河原がいてこそ成り立つものでした。

むしろ彼の存在がなければ、正雪はこの陰謀を実行することはなかったかもしれません。

幕府の役人ですらも加担していたところに、当時、どれほどに社会不安が募っていたのかを、うかがい知ることができます。

また同時に、幕府の役人が参加していたことから、陰謀の情報は漏洩しやすい環境にもあったのだと言えます。

幕府の諜報活動

しかしながら、この正雪の陰謀は、実行以前から幕府に察知されていました。

当時、中根正盛まさもりという旗本がおり、彼は幕府の隠密の元締めをしていたと言われています。

中根は密偵に支持をして正雪の門下に入らせ、計画の全貌をつかんでいました。

5千人も参加していたのであれば、その中にひとりやふたり、幕府の密偵が混じっていたところで、誰も気がつかなかったでしょう。

雑多に人を集めたことで、情報が漏れやすくなっており、正雪の計画はその点が著しく、うかつなものでした。

やがて中根は老中(執政)の松平信綱のぶつならに、正雪の陰謀を報告します。

にも関わらず、正雪はしばらくは泳がされており、すぐには逮捕されませんでした。

これは松平信綱らが、正雪の陰謀を利用して、徳川頼宣を失脚させようと企んだからです。

中根は密偵を紀州に派遣して、頼宣が正雪の計画に加担している証拠を探しましたが、どれだけ調べても見つかりませんでした。

実際のところ、正雪は頼宣の名前を一方的に利用しただけで、頼宣は関与していなかったのです。

そうこうしているうちに時間が経過し、正雪が陰謀を実行に移す時がやってきました。

そうなるともはや正雪を泳がせておけませんので、正雪一味の捕縛に向け、幕府は動き出すことになります。

つまり正雪の計画は、始める前から失敗が定められていたのだと言えます。

計画の実行と露見

正雪は手はずを整えると、1651年の7月21日に江戸を出発しました。

この時には弟の由比三佐衛門さんざえもんや浪人数名、そして増上寺の僧・廓然かくねんらが付き添っています。

そして7月29日までには久能に到着し、江戸での決起を待つはずだったのですが、7月23日には早くも露見しています。

幕府が計画の実行を知って、事態を明るみに出すことにしたのでした。

最初に情報を漏らしたのは、奥村八郎右衛門はちろうえもんという浪人だったとされています。

彼は7月22日に、正雪の後を追って駿府に向かおうとしたのですが、その際に兄の權之丞ごんのじょうに別れの挨拶をします。

その際に奥村は、急にある大名に召しかかえられることになったのだと説明しましたが、兄に怪しまれ、問いつめられました。

そこで奥村は陰謀の内容を兄に話します。

これを聞いた兄は驚愕し、「そんなことをしてはならない、むしろ速やかに自訴をして、恩賞に預かった方がよい」と弟を説得します。

すると奥村はこれに同意し、二人で相談の結果、兄・權之丞の主君である、松平信綱に訴えることになりました。

偽りの訴え

というのが幕府が表向きに明らかにした話だったのですが、実際は、奥村は初めから密偵として正雪たちの仲間になったふりをしていただけで、計画が実行されそうになると、兄とともに松平信綱に訴え出る、という筋書きが用意されていました。

これによって松平信綱は、自分の家臣が陰謀を食い止めたのだという功績を得られるわけで、初めから仕組まれていたのです。

奥村が訴え出た、という話が伝わると、連鎖的に正雪の同志たちの裏切りがあいつぎ、何人もの密告者が現れています。

その中には、丸橋忠弥を正雪に紹介した、弓師藤四郎も含まれていました。

こうして陰謀を食い止めるための動きが活発化し、松平信綱はただちに町奉行に対し、正雪の一味を逮捕するようにと命じます。

丸橋忠弥の捕縛

そして7月23日の夜には、弓師藤四郎の案内によって、忠弥の住居である大岡源左衛門の屋敷が包囲されました。

町奉行の捕り手たちは、まず「火事だ、火事だ!」と騒ぎ立てます。

これを聞いた忠弥は「火事はどこだ」と丸腰で邸内から出て来たところを、捕り手たちに数人がかりで押さえ込まれ、捕縛されました。

この時に忠弥の妻子も捕縛されたのですが、忠弥の妻は落ち着き払っており、捕まるより先に、素早く同志たちの名が記された連判状を火にくべ、証拠を隠滅しました。

その上で「ここには丸橋の妻と老母しかいない。慌てなさるな」と捕り手たちに告げて騒ぎを鎮め、身なりを繕ってから縄をかけられました。

その肝のすわった様子には、捕り手たちも感心をした、ということです。

捕り手たちは、続いて鉛消蔵奉行である河原勘左衛門の自宅に向かい、こちらも一家を捕縛しています。

その他の嫌疑者たちも捕縛され、計画は早くも失敗に終わることが確定しました。

そしてもちろん、首謀者たる正雪に対しても、逮捕命令が下されます。

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