浪人への監視の強化
正雪が陰謀を計画できたのは、江戸に浪人たちがあふれかえっていることにありました。
ですので、幕閣たちはこの年の12月に江戸城内の白木書院に集まり、浪人対策を協議しています。
この席で酒井忠勝が、「江戸に集まっている浪人たちを、ことごとく追放してはどうか」と提案します。
これに対して老中の阿部忠秋が、「江戸は天下の諸大名が集うからこそ、仕事を求めて浪人たちが集まってくる。なのに浪人たちをみな追い払えば、彼らは仕官の可能性となりわいを失い、進退がきわまって、いずこかで山賊や強盗になり、良民に害をもたらすだろう」と述べ、酒井の案に反対しました。
この意見に賛同する者が多く、浪人の追放案は却下されています。
翌年の陰謀
しかし翌年の9月13日には、新たな陰謀が発覚します。
その陰謀とは、別木庄左衛門を中心とした浪人たちが、風の強い日に火を放ち、増上寺に乱入して財宝を奪ってやろう、というものでした。
増上寺は徳川家の菩提寺であり、ここに異変があれば、幕府の高官が出張ってくるだろう、というのが浪人たちの読みでした。
そして消防の下知をするために出馬して来た高官たちを、物陰から鉄砲で撃ち取る。
そうすれば江戸は大騒動のちまたとなり、混乱するだろうから、その機に乗じて天下に異変を起こしてやろう。
というのが計画の全貌でした。
この事件は「承応の変」と呼ばれています。
正雪の計画と似通ったところがあり、参考にしたのではないかと思われます。
あるいは参加者の中に、正雪の陰謀に加担しようとしていた者がいたのかもしれません。
この時もまた松平信綱の元に、普請奉行・城半左衛門が訴え出てきたことによって、事件が発覚しました。
これは城の家臣・長崎嘉林が浪人たちに仲間に誘われ、陰謀を城に通報したことがきっかけとなっています。
正雪の時と構図が全く同じであり、中根正盛の息がかかった者が、浪人たちの仲間のふりをして情報を探っていたのかもしれません。
信綱はただちに阿部忠秋や酒井忠勝に連絡し、協議を行ってから、町奉行に浪人たちの捕縛を命じました。
町奉行は人数を集めて増上寺に押し寄せ、浪人たちと戦いになります。
浪人たちが激しく抵抗したため、捕り手に負傷者が出ましたが、最終的にはほぼ全員が捕縛され、脱出した者も数日後に自害しました。
そして早くも9月21日には、全員が磔によって処刑され、その一族もことごとく死刑になっています。
なお、この時も前回と同じく、通報した長崎嘉林は五百石を与えられました。
こうして幕府は陰謀を未然に防ぎつつ、密告した者には褒美を与えるという前例を作っていったのでした。
全般的に対応をみるに、この時期の幕閣には能力の高い者が多く、そう簡単に政権を覆すことができるような状況ではなかったことがうかがえます。
彼らはまだ徳川氏の権力が不安定な時期から政務に携わり続けていましたので、よく鍛えられており、危機への対処力が優れていたのです。
浪人の住居登録を義務づける
浪人の追放は見合わされたものの、度重なる陰謀の発覚を受け、幕府は浪人への監視を強化することにしました。
すべての浪人は住居の登録が義務づけられ、寺院に住んでいる場合は寺社奉行に、市井なら町奉行に、江戸の近郊なら代官に、それぞれ届け出なければならなくなりました。
これによって幕府は浪人の数と所在地を把握し、事件の予防や調査をやりやすくしたのです。
追放しないことによって浪人たちに大きな不満は抱かせず、同時に騒動は押さえ込めるようにしたわけで、なかなかに巧みな施策だったと言えるでしょう。
改易の減少
そもそも陰謀が企まれやすいのは、幕府が諸大名の改易を繰り返し、浪人を増やしていたからでした。
2年連続で幕閣への襲撃が計画されたことで、幕府はそれまでの方針を見直し、積極的に大名を改易することはなくなっていきます。
大名が亡くなる時に後継者がいなくとも、直前に養子をとって家を存続させることも、認められるようになりました。
これを「末期養子の禁止の緩和」といいます。
こうした方針転換は、この頃になると、幕府の権力基盤が安定し、諸大名が幕府に逆らう可能性が乏しくなったこともまた、影響しています。
正雪の反乱計画は、浪人への監視の強化をもたらしたのと同時に、幕府の統治をより安定させる作用をもたらしたのでした。
正雪自身の企図とは異なった経緯をたどったものの、彼が起こした事件を契機として、失業者の増加が抑制される結果となったのです。
ですので、幕府の統治の問題点を是正する上で、正雪がある種の役割を果たしたのだと、評価することもできるでしょう。


