中国史

用語集

「馬氏の五常、白眉最も良し」とは

「馬氏の五常、白眉最も良し」は、三国志の中に登場する言葉です。後漢の末期、荊けい州の襄陽じょうよう郡に馬姓の五人兄弟が住んでいました。兄弟全員がいずれも秀才だったので称賛を受け、郷里ではこれをことわざにして「馬氏の五常、白眉最も良し」と語っ...
用語集

天下三分の計とは

天下三分の計は、三国志において、諸葛亮が劉備に勧めた戦略案です。207年頃、劉備は荊けい州を支配する劉表の客分となり、新野に駐屯していました。劉備はやがて司馬徽しばきや徐庶に勧められ、臥龍がりょう(眠れる龍)と呼ばれる諸葛亮に会いに行きます...

甘寧 侠客から呉の将軍へと登り詰めた男の生涯

甘寧かんねいは孫権に仕えて活躍した将軍です。元は益州で役人をしていましたが、やがて無頼の徒を集めて頭領となり、好き放題をして暮らしていました。その後、劉璋への反乱に参加しますが失敗し、荊けい州を経由して呉に移住し、孫権に仕官します。呉の武将...
用語集

功曹とは 三国志では龐統が就任

功曹こうそうは中国の官職で、漢代に設置されていました。郡に所属する役人で、人事を担当し、官吏の採用や能力の査定などを行います。現代で言えば、地方自治体の人事局長にあたる存在です。郡の長官である太守は、地元との癒着を防ぐため、現地の出身者は任...
戦い

赤壁の戦いで劉備と孫権が曹操に勝利できたワケ

赤壁せきへきの戦いは208年に、曹操と劉備・孫権連合軍の間で発生した大規模な戦闘です。曹操は圧倒的な大軍を率いて揚州に押しよせ、孫権を降伏させようとしましたが、劉備と孫権は同盟を結び、これに抵抗しました。そして孫権は重臣の周瑜しゅうゆに軍勢...
三国志

馬超に味方した氐族の王・阿貴と千万について

中国は大陸国家であるため、古代から現代に至るまで、様々な民族が入り混じって暮らしています。その中には氐ていという民族がおり、主に中国の西部、漢代には涼州と呼ばれた地域に在住していました。前漢の武帝は外征を繰り返し、それまで圧迫を受けていた匈...
用語集

白馬義従とは

白馬義従はくばぎじゅうは三国志に登場する、公孫瓚こうそんさんが率いていた騎兵隊の名称です。「白馬」はそのまま「白い毛並みの馬」を意味し、「義従」は「騎乗した弓兵」のことを指しています。公孫瓚は幽州という、東北の辺境地帯で戦っていた将軍でした...
三国志

程昱(程立) 優れた智謀を備え、曹操の危機を救った軍師の生涯

程昱ていいくは曹操に仕えて活躍した軍師です。曹操が初期の拠点とした兗えん州の出身で、この地が呂布に奪われかけた際に防衛に活躍し、曹操が反抗に転じる契機を作り出しました。また、軍勢を率いて活躍することもあるなどなど、文武両道の人物でもありまし...
用語集

司隷校尉とは 三国志では曹操や張飛、諸葛亮が就任

司隷校尉しれいこういは漢代や三国時代に存在した官位です。古代の周王朝の時代に「司隷」という官位があり、それが元になっています。司隷は「隷(罪人や捕虜)を司る」という意味です。古代では、懲役囚に公務(公共の工事や辺境の守備)の手伝いをさせ、そ...
用語集

孝廉とは 三国志では曹操や孫権、荀彧などがこれによって推挙された

孝廉こうれんとは、中国の漢代に設置されていた人材登用の制度です。地方の人士の中から、優れた者を中央の官吏に任命するために設置されていました。「孝廉」は「孝行で欲が少なく、正直な人柄」を意味しています。つまりは儒教の理想にかなう、人格的に秀で...