中国史

三国志

劉繇 太史慈を用いず、孫策に敗れた揚州刺史の生涯

劉繇《りゅうよう》は後漢の末期において、揚州の刺史《しし》(長官)となった人物です。もともとは、清廉かつ公正な官吏として知られた人物でしたが、戦乱の中で刺史となり、袁術と争うことになりました。しばらくは勢力を保つものの、やがて孫策《そんさく...

太史慈 劉備に救援を求め、孫策に仕えて活躍した武人の生涯

太史慈《たいしじ》は後漢の末期に活躍した武人です。単に強いだけでなく、信義に厚く、機転がきく性格で、相当に有能な人物でした。しかしなかなか主君に恵まれず、各地を流転していましたが、孫策に出会うことで運が開け、重く用いられるようになりました。...

孫堅 呉の礎を築いた孫策・孫権の父の生涯について

孫堅《そんけん》は後漢の末期に、各地の反乱討伐などで活躍した武将です。彼の家には地位も財産もありませんでしたが、優れた軍事の才能によって頭角を現し、順調に出世を重ねていきます。そして将軍の地位を得て董卓をおびやかすほどの存在になりましたが、...
中国史

二人の孫子 – 孫武と孫臏 兵法書を書いたのは?

『孫子の兵法書』で知られる孫子は、古代中国の兵法家でした。「子」とは「先生」を意味する言葉ですので、孫子は孫先生という意味になります。史上、孫子と呼ばれた人物は二人いましたが、この文章では、彼らの逸話や事跡について書いてみようと思います。一...
三国志

袁術 仲の皇帝を名のるも、蜂蜜も得られずに最期を迎える

袁術えんじゅつ》は後漢の末期に群雄のひとりとして活動し、やがて皇帝を僭称した人物です。一時は孫堅や孫策を従えて強勢を誇りましたが、信義に欠け、人望が乏しかったので孤立していきました。仲《ちゅう》という国を建国したものの、諸侯から承認されず、...
三国志

劉表 孫堅を破り劉備を客分とした、荊州の支配者の生涯

劉表《りゅうひょう》は後漢の統治力が衰えた時代に荊州《けいしゅう》の刺史《しし》(長官)となり、支配権を確立した人物です。そして孫堅の侵攻を受けるものの、孫堅を討ち取って撃退に成功するなど、守勢に強いところを見せています。また、曹操に敗れて...
三国志

董卓 後漢の実権を掌握するも、呂布に殺害された暴君の生涯

董卓は後漢の末期において、辺境の兵を率いて洛陽《らくよう》に乗り込み、実権を掌握した人物です。その後、彼が3年に渡って暴政を行ったことで、後漢王朝の権威は地に墜ち、やがて魏に取ってかわられることになります。その結果、董卓は暴君の代表的な人物...
春秋

管仲と鮑叔 才能がある人と、それを認めて支援した人の話

紀元前7世紀ごろ、斉《せい》という国に、才能はあるものの失敗も多かった、管仲《かんちゅう》という男がいました。【管仲の肖像画】彼は若い頃からずっと、鮑叔《ほうしゅく》という男と親しく付き合っていました。この鮑叔は、管仲に傑出した才能があるこ...
楚漢戦争

劉邦はどうして項羽を討ち破り、漢の高祖になれたのか?

劉邦は名もなき男として生まれながらも、戦乱の時代に頭角をあらわし、一代で漢の皇帝にまで上り詰めた人物です。しかし劉邦は特別に秀でた軍事能力も、政治力も備えておらず、血筋も平凡で、財産もありませんでした。にも関わらず、劉邦は不思議な人望を備え...

荀彧 曹操の元で王佐の才を発揮するも、自害に追い込まれた悲運の宰相について

荀彧(じゅんいく)は曹操に仕えてその覇道を支えた名臣です。若い頃からその秀でた人格と才能を知られており、「王佐の才」の持ち主であると賞賛されていました。荀彧は戦略の立案や領地の統治、人材の推挙など、多方面に渡って活躍し、曹操の勢力の躍進に貢...