墨俣一夜城 豊臣秀吉と蜂須賀小六の出世物語

スポンサーリンク

築城の開始

秀吉は計画通りに、一度加工した建材をばらして墨俣に運び込みました。

そして雇った人足や野伏たちを督促し、建設を開始します。

秀吉は建築の仕切りが得意で、かつては信長の居城・清洲(きよす)城の普請奉行を務めていたこともありました。

ですので、秀吉にとっては大の得意分野の仕事だったのです。

やがて、それと気がついた斉藤軍が墨俣に攻め寄せてきますが、その頃には早くも城壁が完成していました。

当時の武士たちは、普段は分散して村落に居住しており、戦闘の時には呼び出しを受けて城下に集合し、それから進軍を開始する、という仕組みになっています。

このため敵地まで進軍しても、迎撃を受けるまでに、ある程度は時間の余裕を持つことができ、秀吉はその間に墨俣の築城を進めて行ったのです。

秀吉はまず外壁を完成させ、その後で居住区などの内部施設を作っていく、という方式を取ることで、素早く城の防御力を確保します。

そして秀吉は野伏たちとともに城壁を頼りに戦い、押し寄せて来た斉藤軍を撃退しました。

その後も攻撃は続きましたが、城壁ができあがると、以後は(やぐら)などの防御施設や、居住区を建てる作業が続き、やがて墨俣城は完成します。

この時の築城があまりに迅速だったことから、後世から「墨俣一夜城(すのまたいちやじょう)」と称えられることになりました。

さすがに一夜で完成させるのは不可能だったでしょうが、短期間に城としての体裁を整えたので、このように呼ばれたのです。

この成功によって、織田軍は西美濃への影響力を強めていきました。

美濃の制圧

こうして墨俣城が築かれ、織田氏の勢力が間近に迫ったことから、斉藤氏の将来を見限る者が増えていきました。

そして最終的には稲葉一鉄(いってつ)や安藤守就(もりしげ)氏家卜全(うじいえぼくぜん)ら、「西美濃三人衆」と呼ばれる有力者たちが信長に寝返ります。

これによって斉藤龍興は、その勢力の大半を失いました。

すると信長は数万の大軍を動員し、龍興の本拠である稲葉山(いなばやま)城を包囲します。

そして龍興から城を奪って追放し、美濃の攻略を完全に成し遂げました。

こうして信長は尾張と美濃、二ヶ国の太守となり、その勢力を飛躍的に拡大しています。

信長は秀吉の功績を称賛し、やがて2千の兵を率いる部隊長の地位を与えました。

秀吉は権限が大幅に強化されたことから、織田家への仕官が許された小六を自分の配下にし、その戦力を充実させています。

秀吉はその後、天下人の地位にまで駆け上がっていくのですが、小六もまた「蜂須賀正勝(まさかつ)」と名前を変えて秀吉に仕え続け、最終的に蜂須賀家は、阿波(あわ)(徳島県)一国を支配する、18万石の大名にまで出世しています。

そのきっかけが、この墨俣一夜城の成功によるものだったのです。

【天下人になった後の秀吉の肖像画】

秀吉は建築が得意だった

秀吉は建築を得意としており、それに関する逸話が多い人物です。

おそらくは放浪時代に建築現場で働いていたことがあり、その時にノウハウを身につけたのでしょう。

(あるいは、秀吉は流浪の建築者集団の出身だったのではないか、という説もあります。)

この墨俣一夜城は、後世の創作だとも言われているのですが、秀吉の「建築が大の得意だった」という特徴と、出世の過程を鮮やかに浮かび上がらせる、見事な逸話だと思われます。

関連記事

木下藤吉郎が豊臣秀吉を名のるまで
羽柴秀吉は関白になって豊臣秀吉を名のるようになり、天下人としての地位を手に入れました。 秀吉は元々は低い身分の出で、そこに至るまでの過程で何度も名前を変えています。 この文章では、秀吉の名前の変化とともに訪れた、彼の出世の道のり...

関連書籍

秀吉の出世の過程を描いた司馬遼太郎の小説です。
読みやすくてテンポがよく、爽快な物語を楽しめます。