法正 劉備に仕え、蜀の建国に貢献した参謀の生涯

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曹操を撃退する

この敗戦を受け、曹操は漢中に残留している部隊の救出と、奪還のために遠征してきます。

そして法正が劉備に献策したことを知ると「玄徳(劉備)が漢中を奪取しようとなどと、思いつくはずがない。誰かが入れ知恵したのだろうと思っていたわい」などとと言いました。

益州を制覇するには、漢中を抑えるのは当たり前のことで、劉備がそれに気づかないはずがありません。

ですのでこれは、劉備に対する負け惜しみでしかありませんでした。

しかしそれを実現した法正の才能が、本物だったのは確かです。

劉備を身を挺していさめる

劉備は曹操と漢中で対戦した際に、形成が不利になったことがありました。

しかし劉備はいきり立っており、退却を許可せず、諫められる者もいませんでした。

やがて周囲に矢が雨のように降り注ぎ、危機に陥ります。

すると法正が進み出て、劉備の前に立ちはだかりました。

劉備は「孝直(法正)よ、矢を避けよ」と言います。

すると法正は「殿が自ら矢が降り注ぐ中におられるのです。私のような、取るに足らぬ者がここに留まるのは、当然のことでしょう」と答えました。

劉備はこの法正の行動によって頭が冷え、「ならば、わしはおまえと一緒に引きあげよう」と言って、退却します。

法正は人格にいくらか問題を抱えていたものの、劉備には忠実に尽くしていたのでした。

だからこそ劉備は、法正を深く信頼し、多少のとがは見過ごしたのでしょう。

翌年逝去する

その後、劉備は要害に籠もって守りを固めたので、曹操も手が出せなくなって撤退しています。

こうして漢中を制圧した劉備は、漢中王の地位につき、威望を高めました。

そして法正を尚書令しょうしょれい・護軍将軍に昇進させています。

尚書令は王や皇帝の側近で、政務を担当する地位であり、法正の立場は大変に強くなりました。

しかし法正は翌220年に、45才で死去しています。

年齢からして、病死だったと思われます。

劉備は法正の死を悼み、何日も涙を流しました。

法正は劉備の躍進を支え、力を尽くしましたので、その痛みは大きなものとなったのでしょう。

劉備は法正によく候の諡号しごうを贈っています。

劉備が臣下に諡号を与えたのは法正のみであり、これは特別扱いでした。

そして子の法ばく関内かんだい候の爵位を与えています。

法邈は後に、奉車都尉ほうしゃとい・漢陽太守にまで昇進しました。

諸葛亮の嘆き

法正の死は、その後の蜀の行く末に、大きな影響を及ぼしました。

劉備は222年に、関羽の復讐と、荊州の奪還のために孫権に攻めかかろうとしました。

しかし益州から荊州を攻めるには、間に横たわる山岳地帯や、多くの河川が妨げとなるため、群臣たちはみな反対をします。

しかし劉備はこの諫めに耳を貸さず、大軍を動員して攻めこみ、夷陵いりょうで大敗を喫しました。

諸葛亮はこの時に益州を守っていましたが、敗北の知らせを聞くと、嘆息しつつ次のように述べました。

「法正が健在だったなら、主上を抑えて東征が実施されることはなかっただろう。

たとえ東征したとしても、このような敗北は避けえたことだろう」

法正評

三国志の著者・陳寿は、法正と龐統を並べて評しています。

「龐統は日頃から人物評価をするのを好んでおり、経学と策謀に優れていた。

そして当時、荊州や楚の人々から秀でた人物だと評価されていた。

法正は成功と失敗をはっきり見きわめ、並外れた計画や術策を立てるのを得意としていた。

しかしながら人徳についての称賛はなかった。

彼らを魏の臣下にあてはめると、龐統は荀彧や荀攸、法正は程昱や郭嘉であろうか」

法正は程昱や郭嘉と並べられていますが、いずれも知謀に優れており、その点だけで歴史に名を残した人物たちだと言えます。

法正には蜀郡で怨みのある相手に、殺害という形で報いたことから、人徳は乏しい性格だったことがわかります。

しかし一方で優れた知謀を持ち、綿密な作戦を考えるのが得意で、劉備の飛躍に大きく貢献しました。

諡号の翼候は、劉備に翼を与えたがごとき働きがあったことから、贈られたものだったのでしょう。

劉備が信義を重視する姿勢を取っていたことから、策謀が得意な人材は少なかったのですが、そういった意味でも、法正の存在は貴重でした。

諸葛亮もまた、並外れた知性を持っていましたが、最も得意なのは統治や戦略といった分野であり、策謀は法正の方が得意でした。

このため、法正の存在は諸葛亮にとっても重要であり、もしも彼があと10年ほど長く生きていたら、蜀の運命は大きく違ったものとなっていたでしょう。

同時に、法正の役目を果たせる人材を他に得られなかったことが、蜀という国の限界だったのだとも言えます。