徳川家康はいかにして井伊直政を育成したか

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優れた戦国大名の元には優れた人材が集うものですが、最終的に覇者となった徳川家康にも、優れた家臣たちが仕えていました。

その中でも本多忠勝・榊原さかきばら康政・酒井忠次・井伊直政は「四天王」と呼ばれ、特に秀でた能力を持っていたことで知られています。

では、そのような人材たちが、勝手に育って家康のところに集まったのかというと、そうではありません。

優れた戦国大名はみな優れた教育者でもあり、家臣たちの育成も熱心に行っていたのです。
この文章では、北条征伐において、徳川家康が井伊直政に施した実地教育の様子について、書いてみます。

【教育者としても優れていた徳川家康の肖像画】

小田原攻め

1590年になると、豊臣秀吉は天下統一の仕上げをするべく、20万の大軍を動員し、関東を支配する北条氏の征伐に向かいました。

当時、東海道と甲信を支配していた家康は3万の軍勢を率いてこれに従軍し、やがて北条氏の本拠である小田原城の包囲戦に参加します。

小田原城は堅固かつ大規模な要塞で、無理に力攻めをすると損害が大きくなってしまいます。ですので、秀吉はこれを包囲して封じ込めつつ、周辺の北条氏の城を攻め落とすことで、その勢力を削減する戦略を立てました。

このため、小田原城の包囲軍は状況の推移を見守るばかりだったのですが、唯一、小田原城に攻め込み、その一角を占拠したのが井伊直政でした。

直政はこの時まだ、29才の若手の武将です。

井伊氏はもともと遠江とおとうみ(静岡県西部)の小領主でしたが、存亡の危機に立たされた際に、家康の支援を受けて復興した経緯がありました。

井伊氏の後継者である直政は、徳川氏との関係を深めるため、家康の近習きんじゅうとして仕官しています。そして家康からその才能を見いだされ、寵愛を受けるようになっていきました。

直政はやがて武将として取り立てられ、若くして数千の兵の指揮を任される立場に就くようにもなります。

直政の元には、武田信玄が鍛え上げた「赤備あかぞなえ」という勇猛な兵士たちが配備されており、徳川軍の中でも特に精強な部隊を率いていました。

直政は新参者でしたので、同じく新規に徳川氏に仕えるようになった、旧武田氏の家臣たちをまとめさせるのに都合がよかった、という理由もあったでしょう。

【井伊直政の肖像画】

篠曲輪(ささくるわ)を巡る家康の問いかけ

さて、小田原城の東には、篠曲輪(ささくるわ)という場所がありました。

曲輪(くるわ)とは、堀や石垣などで囲われた防御区画のことを指します。

ここには城中から一本の橋がかけられ、昼の間は北条兵が移動して守備についていました。ですので、小田原城の中ではやや突出した地点を守る施設だったことになります。

家康はその様子を見て、井伊直政を呼び出し「橋か、橋か」とだけ言います。

これだけでは何を言いたいのかわからず、直政は困惑しました。しかし家康はそれ以上は何も言いませんでした。

自分の陣地に戻った直政は、家康の意図をはかりかねて悩みますが、「橋の下の水の深さを測れ」と家康は命じたかったのだろうかと推測します。

そして橋の下に杭を立てて水の深さを測らせますが、それだけでは心もとなかったので、自らも水際まで近寄り、よく観察してから家康の元に向かいました。

そして水の深さを報告しますが、家康は再び「橋か、橋か」と言うだけで、直政はどうやら自分の考えは間違っていたらしいと気がつきます。

しかし家康は正解を教えてくれませんので、直政はますます困惑することになりました。

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