天皇家の家紋・菊の御紋の由来について

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葵の紋を尊貴なものとする

家康は徳川家の家紋である「あおいの紋」をこそ尊貴なものとして扱わせるため、幕府の許可なく使用することを厳禁としました。

【徳川家の葵の紋】

一方で、「菊の紋は自由に使ってもよい」とし、一般人でも用いることができるようにしたのです。

このため、和菓子にも使われるようになりました。

この方策によって家康は皇室の権威を弱めつつ、同時に幕府の権威を強め、徳川氏の支配力の強化を図ったのです。

テレビドラマの水戸黄門で、葵の紋のついた印籠を取り出すや、悪人たちがすぐに平伏する、という演出がありました。

これは江戸時代における、葵の紋の高い権威を表現したものだと言えます。

このように紋章には、かつては政治的に重要な意味があったのでした。

幕末・明治期の変化

家康の策によって、江戸時代を通して菊の紋の権威は落ちていったのですが、幕末になると、これが逆流し始めます。

幕末には尊王思想が興隆し、徳川幕府を倒して天皇を中心とした新しい政権を作ろう、とする動きが活性化しました。

そし「菊は咲く咲く、葵は枯れる」という流行歌が作られ、「菊=天皇」の力が強まり、「葵=徳川」の力が弱まっていくことが表現されました。

この頃にもまだ、菊の象徴性は失われていなかったのです。

むしろ、和菓子にすら使われたことで、一般にもその存在が深く浸透していたのかもしれません。

やがて明治維新が発生し、天皇が再び国政の中心に据えられると、皇族以外が菊紋を使用することが禁じられ、その権威が高まっていきました。

そして明治維新によって、後鳥羽上皇の時代から続いていた、朝廷と武家の抗争に決着がつきます。

廃刀令などの政策によって、武士という階級そのものが消滅してしまったのです。

代わって近代化を目指す政治家や官僚たちが国政を担うようになり、武士はその役割を終えました。

明治以後は、陸軍の軍旗や、軍艦の艦首にも菊紋が付与され、天皇直属の軍隊としての位置づけがなされました。

これがやがて、軍部が議会の統制を離れて独走し、軍国主義を日本にはびこらせ、国の破綻をもたらす結果を生むことにもつながっていきます。

現代の菊紋

現代においても、菊紋は日本の象徴として存在し続けており、身近なところでは、パスポートの表紙に使用され、誰でも所有できるようになっています。

そして江戸時代と同じく、菊紋の和菓子はたくさん作られています。

これらの例に見られるとおり、今では菊紋の使用は相当に緩やかになりました。

このあたりは、戦後に民主化が進んだことが反映されているのだと言えます。

しかし、天皇家の菊花紋章(十六八重表菊じゅうろくやえおもてぎく)については、なるべく使用しない方がいい、ということになっています。

まとめ

こうして見てきた通り、菊の御紋はその時代によって、扱いが大きく変転して来ています。

天皇の象徴ですので、その権威の上下動によって、菊紋の扱いも変わり続けているのでした。

紋章とはそもそも、天皇によって役割を与えられた臣下が、その職掌を表すために用いていたもので、奈良時代の頃から使用され始めていました。

つまり紋章とは従来、天皇に仕える臣下たちが用いるもので、天皇が用いるものではなかったのです。

天皇は何を担当しているかなど、人に示さなければならない立場にはなかったので、特に紋章を使用してはいませんでした。

しかし、武家政権の登場によって朝廷の権威がゆらぎ、それを取り戻そうとした流れの中で、菊紋が登場することになったのです。

すなわち、菊紋は皇室の存在を強調する必要から発生したものだったのだと言えます。

その後、800年近くにわたって存在し続け、世に広く浸透したことから、日本という国の象徴として位置づけられ、現代にも残ることになっています。

おそらくは今後も時代状況の変化によって、菊紋の扱いは変わり続けていくことでしょう。