小早川秀秋は関ヶ原の戦いにおいて西軍を裏切り、東軍の勝利を決定づけたことで知られています。
その一点でのみ歴史に名を残している、と言ってもよいでしょう。
しかし秀秋がどのような来歴の人物であったのかはあまり知られていません。
この文章ではそのあたりに触れつつ、秀秋がどうして東軍に寝返ったのかについて書いてみようと思います。
秀吉の養子になり、後継者候補として育つ
秀秋は天下人・豊臣秀吉の義理の甥として誕生しました。
父は木下家定といい、秀吉の妻・ねねの兄です。
本能寺の変が発生した1582年に生まれています。
3才の時に実子のいない秀吉の養子として引き取られ、ねねの元で成長することになりました。
元服して羽柴秀俊を名のり、わずか6才の時に諸大名からの起請文を受け取ったり、秀吉の代理として天皇への誓いを受け取るなど、公的な場での活動が認められます。
(秀秋は生涯で何度か姓名が変わりますが、煩雑になるのでこの文章で触れる際には秀秋の名で通します)
その後、7才の時に丹波亀山城(京都府)に10万石の領地を与えられ、10才の時には中納言という高い官位に叙任されます。
そして豊臣姓を名のるようにもなりました。
幼少の頃から秀吉にこのような厚遇を受けており、後継者候補のひとりとして扱われていたことがうかがえます。
この時は人が羨むような、幸運な立場にあったと言えるでしょう。
秀秋と秀次、2人の養子
秀秋の他には、豊臣秀次というもう一人の養子がいました。
1568年生まれですから秀秋よりも14年ほど年長で、こちらは候補ではなく実際の後継者となり、秀吉から関白という、朝廷における最も高い地位を引き継いでいます。
この時代の人の命は現代よりもはるかに失われやすく、秀次が長生きできるとは限りません。
秀次に何かあった時のために秀秋を養子にして豊臣家の一員として育成しておき、いざという時には豊臣家を継げるようにもしておこう。
そのような構想が秀吉にはあったかもしれません。
豊臣一族で長生きした人物は少なく、秀吉の弟・秀長は秀吉よりも先に50才で死去していますし、その養子の秀保はわずか17才で病死しています。
豊臣家は一族の人材が不足していたわけでもあり、それが秀秋に対する厚遇につながっていったものと見られます。
ここまでは責任は重いながらも、順風満帆と言える人生を秀吉から提供されていたわけですが、1593年に、秀吉に実子・秀頼が生まれたことにより、2人の養子の運命は反転します。
黒田官兵衛の働きかけ
秀頼が生まれたことにより、秀吉はこの子に自分の跡を継がせたいと願うようになります。
そうなると、秀次と秀秋という2人の年長の養子は邪魔になってしまいます。
秀頼が生まれた翌年に、当主に実子のいない中国地方の大大名・毛利家に対し、黒田官兵衛が話をもちかけます。
秀秋を毛利家の跡継ぎとして養子にもらってはどうか、という内容でした。
豊臣一族に毛利家を乗っ取られることを嫌ってか、毛利家の統率者である小早川隆景は、跡継ぎを別の人物に定めた上で、秀秋を自分の養子とすることを申し出ます。
いわば自分の家を継ぐ権利を提供することによって、毛利家が乗っ取られることを防いだわけです。
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