小早川家の養子となる
小早川隆景は高名な毛利元就の三男で、秀吉からの信任も厚い人物で、30万石という大きな領地の主でもありました。
そのような人物の養子となり、かつ秀頼の邪魔者でもなくなるわけですので、秀吉はこれを了承し、秀秋は小早川家の人間になりました。
秀秋からすれば天下を制した豊臣家から放出され、その家臣の毛利家の、さらに家臣の小早川家の人間になるわけですので、決して愉快には思わなかったでしょう。
秀頼が生まれたことで存在が不要となり、捨てるようにして他家に出されたわけですので。
しかし秀吉に逆らうことなど秀秋にはできませんので、言われるままに小早川秀俊と名前を変えます。
これによって小早川家の家格はあがり、やがて隆景は豊臣政権の五大老のひとりとなり、本家である毛利家と対等の立場になりました。
隆景は野心のある人物ではないので、このような形での出世は喜ばなかったでしょうし、縁もゆかりもない人物に自分の家を継がせることになったわけで、こちらも胸中複雑なものがあったでしょう。
秀次事件の発生
秀秋が小早川家の養子となった翌年には、関白の地位にあった豊臣秀次が粛清されます。
1595年に突如として秀次に謀反の疑いがかけられ、秀次は関白の地位を剥奪されて高野山に送られます。
そして間もなく自害を命じられ、秀次は秀吉の手によって抹殺されてしまいました。
秀次に対する嫌疑には確たる証拠はなかったようであり、秀吉の陰謀によって排除された、と見るのが正しいようです。
この頃の秀吉は、なにがなんでも秀頼に自分の跡を継がせるのだ、という妄執にとらわれていたのでしょう。
秀頼は幼く、天下を制した豊臣家の主としてやっていけるようになるまでには、まだまだ時間がかかります。
その間は秀次に関白を任せ、秀頼が成人した後に関白の地位を譲るようにさせる。
そのようなもっていき方が豊臣家の安定には必要だと思われますが、秀吉はそうしませんでした。
秀吉はこの3年後に死去しますが、自分の寿命がさほど長くないと思っていて、事を急いだのかもしれません。
秀頼が成人するころには秀次の子どもも成長しているでしょうから、秀吉亡き後であれば、秀次は自分の子どもを跡継ぎにしてしまう可能性もあります。
それを嫌った秀吉が強引に秀次を排除してしまった。
そのような成り行きであったと考えることもできます。
秀頼の母である淀殿の関係者たちも、秀次を排除するように働きかけていた可能性もあるでしょう。
処罰は秀次だけにとどまらず、その妻子や主だった家臣たちまでもが処刑されました。
そして秀次の居城や屋敷など、そのすべてを破壊させています。
秀次の係累を残して後に復讐されぬようにと思ったのか、徹底して秀次の縁者たちを討滅しました。
(他家に預けられていた何人かの娘たちが、かろうじて生き延びたと言われています)
この行いに、先に妄執と呼んだ秀吉の仄暗い意識を見ることができるかと思います。
秀吉は秀次がこの世に存在していた痕跡のすべてを消そうとしたのです。
この事件によって豊臣政権の安定は崩れ去り、秀吉亡き後には政権を簒奪される可能性が高まりました。
秀次は単に関白の地位にあっただけでなく、日本を統治するための体制を整え、そのための家臣団も組織していました。
それがまるごと失われたわけですから、豊臣家の支配力は一気に弱体化したのです。
徳川家康が「将来は豊臣から政権を奪えるだろう」と判断したのは、この事件が起きたことによると思われます。
後は秀吉さえ死ねば豊臣の力は失われるからです。
そして事件の余波は秀秋にも及びます。
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