島津義弘と豊久は、天下分け目の決戦となった「関ヶ原の戦い」に、1500の兵を率いて参戦しました。
そして西軍に属するものの、石田三成との確執から戦場ではほとんど戦っていません。
西軍が大敗する形で決着がついてからようやく動き出し、数万の敵軍がひしめく戦場を突破して撤退に成功しています。
島津側も大きな損害を受けましたが、この壮絶な撤退行軍は関ヶ原の戦いの最後を飾る、際立った挿話となっています。
この文章では、そんな義弘と豊久の撤退戦、「島津の退き口(のきぐち)」について書いてみます。
【関ヶ原で壮絶な撤退戦を行った島津義弘の肖像画】
少数でしか参加できなかった島津軍
1600年に行われた関ヶ原の戦いは、天下分け目の決戦であり、その後の日本の歴史の流れを変えた重要な転換点になっています。
この戦いに参加した島津義弘はその重要性を理解しており、本国の薩摩(鹿児島県)に対して何度も兵員の増強を要請しましたが、兄の義久がこれに応えることはありませんでした。
島津氏は1597〜98年まで朝鮮半島への出兵に従事し、続いて1599年には「庄内の乱」という内乱への対処に追われ、このために領内がひどく疲弊していました。
そして義久は豊臣氏を嫌っており、中央の情勢に介入することに積極的ではありませんでした。
こうした事情のため、島津氏はこの大事な戦いに総兵力2万のうちの、わずかな人数しか参戦させることができなかったのです。
義弘と豊久
島津義弘は島津氏の当主・義久の弟で、九州統一戦や朝鮮出兵など、数多くの戦場で際立った武功を立てた、島津氏を代表する歴戦の猛将です。
豊久は義弘の弟・家久の子で、つまりは義弘の甥にあたる人物です。
こちらも知勇に優れ、家臣の統率力を備えた有能な武将であったと言われています。
この頃には既に家久が死去していたため、その後を継いで豊久は日向(宮崎県)の佐土原城主になっていました。
豊久は関ヶ原の戦いの直前に、京の伏見に参勤のために兵を率いて出向しており、このために義弘の要請を受けて参戦することになりました。
この2人以外に主だった武将の参加はなく、島津軍は両者の手勢を合わせた1500が総兵力となります。
他の西軍の武将は石田三成が6900、宇喜多秀家が1万7000、といった大軍を擁しており、これらの武将たちと比較すると島津軍の戦力はいかにも少なく、このために発言力をさほど得られなかったものと思われます。
一度は東軍に味方しようとするも、断られる
義弘ははじめから西軍に味方すると決めていたわけではなく、京の伏見城を守る徳川家康の重臣・鳥居元忠に合流しようとしていました。
これは家康から、もしも京周辺で変事があった場合には、伏見城を守って欲しいと頼まれていたからです。
しかしこのことが元忠には伝わっていなかったのか、入城を断られてしまい、東軍に加わる機会を失っています。
その後、伏見城は小早川秀秋らの部隊に攻められて落城し、畿内では西軍の勢力が強まったため、義弘はその流れに飲み込まれる形で西軍に加わることになりました。
こういったいきさつであったため、義弘は西軍への参加意識が、さほど強くなかったと思われます。
戦場で見捨てられ、夜襲の申し出をはねつけられる
島津軍は美濃(岐阜県)の墨俣で戦闘があった際に前線に出ましたが、後方の石田三成らが撤退する際に知らせを受けておらず、戦場に取り残される、という事件が起きました。
これは三成の失策であり、同時に島津軍の存在を軽視していたことの現れであると見られています。
その後、美濃に家康の本隊が到着した際に、義弘は東軍への夜襲作戦を三成に提案しました。
しかし三成はこの作戦をむげに断った、と言われています。
このために三成と義弘の確執が深まり、義弘の参戦意識がさらに低いものになってしまいました。
この夜襲作戦の信憑性はやや曖昧なのですが、三成との義弘の関係が良好なものではなかったのは確かなようで、しばらく後に戦場でのもめ事が発生しています。
【次のページに続く▼】