意識が変化したのはなぜか
このように、7世紀初頭になると、日本はアジアの国際社会において頭をもたげるようになったのですが、それには朝鮮半島との関係が影響したのではないかと考えられます。
日本は百済に軍事支援ができるほどの実力を備えるようになり、それによって国際的な地位が向上していました。
このため、中国の冊封体制から抜けだし、独立して日本と朝鮮半島にまたがる勢力を形成したい、といった野心を抱くようになったのかもしれません。
当時の朝鮮半島は分裂状態にありましたので、個々の国は日本よりも小さく、これらの国と比較して大国意識を持ち始めた、ということの影響もあったでしょう。
それが中国だけでなく、うちにも天子(皇帝)がいるのだという意識を生み出させ、天皇という号が使われたことにつながったのかもしれません。
唐と敵対する
こうして日本が勢力の伸張をはかる中、隋は煬帝の失政の影響で618年に滅亡し、代わって唐が建国されます。
唐は政情が安定すると、朝鮮半島への介入を始め、やがて新羅を支援し、660年に敵対する百済を滅ぼします。
すると日本と友好関係にあった百済の遺臣たちは、日本に支援を求めました。
これを受け、日本は朝鮮半島への影響力の保持と、文物の輸入の道筋を確保するため、それまでで最大規模の軍勢を編成し、唐と新羅の連合軍に戦いを挑みます。
この時に初めて、日本はそれまで従属していた中国の王朝に、正面から戦いを挑んだのでした。
名義の上では百済と新羅の戦いですが、日本にとっては、これは一種の独立戦争だったと言えるかもしれません。
そして663年に白村江で決戦が行われますが、日本と百済の連合軍は大敗を喫し、日本は朝鮮半島から完全に手を引くことになります。
この敗戦の後、日本は唐が攻めこんでくるのではないかと恐れ、海岸線の防衛を強化したり、都を内陸部に移すなどの措置を取っています。
そして国の体制を、中国式の律令制に切り替えていくことになりました。
今の日本の体制では、とても唐に対抗することなど無理なのだと悟り、国家体制の改革を推し進めることにしたのです。
1945年の太平洋戦争の敗北によって、民主主義を取り入れ、国家体制をアメリカに近づける変化が生じましたが、それと類似した動きだったのだと言えます。
その流れの中で登場したのが、天武天皇でした。
天武天皇が天皇を名のったのか?
先に触れた通り、天武天皇が公式に天皇の号を用い始めた人物だ、とされています。

天武天皇は専制君主として君臨し、強権をふるったことで知られています。
この時期に、天皇の支配の正当性を主張する『日本書記』の編纂が始まっており、新しい日本の統治体制の確立を目指す動きが生じてもいました。
また、宗教的な権威をまとうため、自分の血統は天照大神の子孫だという物語を作ったのも、天武天皇だという説があります。
その他には、天武天皇は中国の道教を信奉し、親族たちに「真人」という道教の称号を与え、格付けを行うこともしています。
ですので、天武天皇が中国の皇帝のごとくふるまい、そのために皇帝と同格の、天皇の称号を用い始めたのではないか、という推測が成り立ちます。
しかし一方において、この時期の唐の皇帝である高宗もまた、天皇を称しています。
高宗が天皇を使い始めたのが674年で、天武天皇が使用したことがはっきりしているのが、677年です。
つまり同時期に中国の統治者と日本の統治者が、天皇という号を使ったことになります。
天武天皇は高宗の動きにならったということも考えられるのですが、当時の日本は白村江の敗戦後であり、唐と日本の間では、緊張した外交状態が続いていました。
その渦中で、果たして天武天皇がそんな選択をしただろうか、という疑問もわいてきます。
もしも日本の統治者が自分と同じ称号を使っていると知ったら、高宗はそれを不快に感じ、使用をやめるように圧力をかけてくることは明らかだからです。
そうなると、もっと以前の推古天皇の代からすでに使っていたので、そのまま使用していただけではないかとも考えられます。
あるいは唐への対抗意識から、あえて同時期に同じ称号を用い始めた、もしくは、高宗が天皇を名のったことを知らなかった可能性もあります。
669年から702年までの間、日本は唐に使者を派遣しておらず、朝鮮半島のつても乏しくなっていましたので、唐の情勢を十分には把握していなかったかもしれません。
このあたりは様々に推測ができますが、7世紀から天皇という号が用いられるようになった、というのは確実なようです。
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