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三国志

曹休 呉との戦いで活躍した曹操の甥

曹休そうきゅうは字を文烈ぶんれつといい、曹操の甥です。天下が動乱に見舞われると、曹氏の一族はばらばらになって郷里から立ち去りました。曹休は十代で父を失い、食客とともに亡骸をかついで仮に埋葬をすると、年老いた母を連れて長江を渡り、呉に移住して...
三国志

袁紹 曹操と覇を競うも、官渡で敗れた名門の当主

袁紹えんしょうは後漢の末期において、黄河の北方に勢力を築いた人物です。名門の出身で、若い頃から高官の地位につき、動乱が発生してからは反董卓軍の中心人物となりました。その後は北方の四州を制し、諸侯の中で最大級の勢力を得ることに成功します。しか...

賈詡 張繡や曹操に仕えて活躍した智謀の士

賈詡かくは董卓、李傕、張繡ちょうしゅく、曹操らに仕えて活躍した軍師です。人並み外れた智謀を備えており、その計略によって戦いを勝利に導き、情勢に大きな影響を与えています。そして曹丕が曹操の後継ぎになる上で貢献したので、最終的には太尉たいいとい...

張楊 大司馬にまでのしあがるも、部下に討たれた呂布の友人

張楊ちょうようは後漢の末期において、河内で勢力を築いた将軍です。并へい州の出身で、呂布とも親しくしていました。乱世の中で勢力を築き、やがて献帝を保護し、大司馬だいしばにまで立身します。しかし仁愛が深い性格があだとなったのか、部下に裏切られて...

敬哀皇后・張皇后 劉禅の皇后となった、張飛の娘たち

敬哀けいあい皇后は劉禅の正室になった女性で、張飛の長女です。母は夏候覇かこうはの従妹で、薪を取りに出ていたところを張飛が捕まえて、妻にしたという経緯がありました。敬哀皇后は諡おくりなで、名は伝わっていません。221年に、皇太子だった劉禅の妃...

穆皇后(呉莧) 人相見に称賛され、劉備の正室となった女性

穆ぼく皇后は劉備の正室になった女性で、兗えん州の陳留郡の出身でした。穆というのは諡おくりなで、姓名は呉莧ごかんといい、呉氏と呼ばれることもあります。幼くして親を失い、兄の呉壱ごいつとともに孤児になりました。父親が朝廷の高官である劉焉りゅうえ...

黄皓 劉禅に取り入り、蜀の滅亡を導いた宦官

黄皓こうこうは劉禅が成長するに従い、寵愛されるようになった宦官かんがんです。宦官は去勢をした上で、皇族に仕える使用人で、身の周りの世話をするのがその仕事でした。身近なところで接するため、皇族に親しまれて信頼され、やがては権力を握った者たちが...

廖化 蜀の始まりから終わりまでを見届けた将軍

廖化りょうかは蜀に仕えた将軍です。蜀の建国以前から関羽や劉備に仕えており、彼らの死後は、諸葛亮や姜維の元で戦いました。長く活躍し続け、やがて右車騎将軍となり、蜀軍の重鎮にまで立身しています。70才を超えて現役であり続け、最後には、蜀の終焉ま...

諸葛瞻 父には劣るも、忠節は尽くした諸葛亮の子

諸葛瞻しょかつせんは字あざなを思遠しえんといい、蜀の丞相・諸葛亮の子です。227年に誕生しました。諸葛亮は諸葛瞻が生まれた頃から、魏を打倒するための北伐を実施していました。そして234年には、五丈原に出陣します。この時、諸葛亮は兄の諸葛瑾き...

劉永 劉備の子として魯王になり、蜀の滅亡後も子孫が生き延びる

劉永りゅうえいは字あざなを公寿こうじゅといい、劉備の子です。劉禅の異母弟であり、劉備が蜀の皇帝に即位した際に、魯ろ王になりました。中国の王室では、一族を地方の王に封じ、藩国を作って王室の支えとする慣習がありました。このために劉永は王となった...