生き残った子孫が幕府の転覆を企てる
盛親の死から36年の時を経て、長宗我部の名が再び世を騒がせます。
1651年に、由比正雪という軍学者が幕府転覆の陰謀を計画し、同士を集めていました。
これに応じたのが、由比正雪と親交のあった丸橋忠弥という槍術家でした。
彼は由比正雪の片腕となり、積極的にこの陰謀に加担します。
この丸橋忠弥は本名を長宗我部盛澄といい、盛親の側室の子だと言われています。
これが事実だとすると、盛親の執念はその子に宿り、徳川の世に仇なそうとしたことになります。
仮にこれが虚偽だったとしても、徳川に逆らうものとして、長宗我部の名が世に強い印象を残していたことになります。
この時代になっても、幕府による諸大名の改易(領土の没収)は盛んに行われており、世には浪人があふれていました。
彼らは生活苦から盗賊や追い剥ぎに身を落とすことも多く、社会不安の原因となり、当人たちも不幸な生活を強いられていました。
戦乱の時期が過ぎても、人々を不幸に追いやることをやめない徳川幕府を打倒し、世直しをしようというのがこの反乱の趣旨です。
大名から浪人の身分に落とされ、そのために苦しめられた盛親の子どもだという立場は、この陰謀に加担するにふさわしいものでした。
江戸で捕縛され、処刑される
丸橋忠弥は江戸で蜂起し、幕府の火薬庫を爆破して江戸を焼き討ちにするという役目を担うことになります。
しかし、この陰謀は密告によって明るみに出てしまいます。
このため丸橋忠弥は捕縛され、父と同じく徳川幕府によって処刑されてしまいました。
翌年にも、別の浪人たちによって老中暗殺が計画されるなどしており、これを受けて幕府は政策を改め、むやみに浪人を生み出さぬよう、大名の改易を減らすようになります。
そして各藩に浪人を積極的に採用するよう、働きかけるようにもなっていきます。
丸橋忠弥らの企みは失敗に終わりましたが、その遺志は政治に反映され、以後は浪人の数が減り、領地を失って苦しむ武士もまた、減少していくことになります。
これをもって、ようやく長宗我部氏の戦いが、終わりを告げたのだと見ることもできるでしょう。