関ヶ原の本戦に参加するも、何もできずに終わる
盛親は6千の軍を率いて転戦し、西軍の伏見城攻めや安濃津城攻めに参加しました。
そして関ヶ原で行われた決戦にも参加していますが、毛利軍の後方に回されてしまい、主戦場からは遠ざけられていました。
おそらくは盛親がまだ若年なため、重要な場所は任されなかったのでしょう。
その上、毛利軍は東軍の総大将・徳川家康と内通しており、戦いの間、一度も軍を動かさないままでした。
そのため、その後方にいた盛親も身動きが取れず、何もできないままに西軍は壊滅し、敗軍の将となってしまいます。
盛親はやむなく軍をまとめて撤収しますが、その道中で何度も東軍の武将たちの追撃を受けました。
それを振り切ってなんとか大坂まで撤収し、土佐に帰還します。
ここから盛親は長宗我部氏を存続させるべく活動を開始しますが、その結果は思わしいものにはなりませんでした。
謝罪するも、一揆が原因で浪人となる
盛親は徳川家康の重臣・井伊直政とかねてから良好な関係を築いており、彼を通して家康に謝罪します。
家康はこの謝罪を受け入れ、土佐の領地は没収した上で、他の国に領地を与え直す措置をとることを検討します。
盛親は状況に流されるままに西軍についただけで、自分に反抗する強い意志は持っていないと判断したのでしょう。
また、たいして戦闘をしなかったことも、家康の心象をよくしたのだと思われます。
しかし、この知らせを受けた長宗我部氏の家臣たちが、浦戸一揆という騒動を起こしてしまいます。
家臣たちは土佐から移されることに不満を持ち、土佐の接収に訪れた井伊直政の家臣の宿所を囲むなどしました。
この騒動が起きたのは、後継者争いによって家中に火種が残っており、国替えを受け入れるかどうかで意見が割れたことにも原因があったようです。
やがてこの騒動は鎮圧されますが、この後で盛親に領地を与えると、一揆勢の要求に徳川氏が屈したように見られてしまいます。
このため、他国に代わりの領地が与えられるという話は立ち消えとなってしまいました。
こうして盛親は大名としての身分を失い、身一つで浪人することになります。
この時点で、大名としての長宗我部氏は滅亡しました。
戦って滅ぶのであればまだしも、何もせずに滅んだことで、盛親の心にはこれを挽回したい、という思いがくすぶることになります。
京都で浪人生活を送る
盛親は関ヶ原の戦いの時に25才でしたが、これから長く浪人生活を送ることになります。
町人に預けられ、家からも出られない蟄居生活をしていたと言われています。
名前を大岩祐夢と変え、旧臣らの仕送りを受けて細々と生活をしていました。
子どもたちに学問を教える寺子屋の師匠をして生計を立てた時期もあった、と言われています。
いずれにしても、かつての領主の生活とは比べ物にならないほど、みじめな時を過ごし続けたことになります。
その上、徳川氏に恨みを抱いて反抗する可能性があるとして、京都所司代(京都の行政長官)の板倉勝重に監視されており、未来の展望のない時期が過ぎていきました。
豊臣氏から勧誘を受ける
そのまま何事もなく時が過ぎ、朽ち果てていくかと思われた頃、ようやく天下の情勢が変動し、盛親にも再び戦場に出る機会が巡ってきます。
1614年になると、新たに支配者となった徳川氏と、旧支配者である豊臣氏との関係が悪化します。
この事態を受け、豊臣氏は戦力を増強するため、浪人たちを募集し始めます。
やがて盛親の元にも勧誘の使者が訪れ、勝利の暁には土佐の国主の地位につけると約束します。
これを現実のものにするため、盛親は京都を脱出して大坂城に入ることを計画します。
この頃には、盛親は39才になっていました。
若い日々を屈従して過ごすはめになってしまいましたが、ようやくそれを変える機会をつかんだことになります。
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