長宗我部盛親 土佐を失い、大坂の陣に再起をかけた不屈の武将の生涯について

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元親の強行措置

この時代では、よほどの理由がなければ年長者が後を継ぐのが一般的であり、元親の判断はどこか異常なところがありました。

溺愛し、期待をかけていた信親を失ったことで、精神の均衡を欠くようになっていたのかもしれません。

後に盛親に、信親の娘(盛親にとっては姪)を嫁がせており、信親に対する執着には並々ならぬものがあったようです。

一方、盛親は子どもの頃は短気で傲慢な性格だったと言われており、年少者であったことも合わせ、家臣団からは反対意見が多く出ています。

しかし、元親はそれらの家臣たちを処刑するという強硬策に出たため、やがて反対する者がいなくなり、盛親は元親の後継者になることが決まりました。

これに衝撃を受けたのか、次男の香川親和は間もなく死亡しています。

元親が処断したとも、自害したとも言われています。

土佐の領主となる

こうして盛親は、血なまぐさい形で長宗我部家の当主となり、土佐一国を支配していくことになります。

まだ若年であったために父の後見を受け、共同支配の体制が敷かれることになりました。

そして関東の小田原征伐や朝鮮出兵などに参加しますが、この時には目立った活躍はしていません。

やがて1597年には、土佐の分国法である「長宗我部元親百箇条」を発布するなどして、領国支配の法治化を進めていきます。

しかし、名称からしてこれは父の主導によるもので、まだ22才でしかなかった盛親の意志は、さほどに反映されていなかったでしょう。

この頃の盛親は、父の補佐を受けて経験を積む段階にありました。

しかし、それを十分に得ることができないまま、盛親はひとりで大乱に望むことになってしまいます。

父の死と、関ヶ原の戦いの始まり

1599年に、父・元親が老衰によって死去します。

この前年には天下人の秀吉が死去しており、権力をめぐる諸大名の争いが激しくなっていました。

こうした状況下で、若い盛親はひとりで長宗我部氏の困難な舵取りを担うことになります。

そして翌1600年には石田三成と徳川家康の間で「関ヶ原の戦い」と呼ばれる、日本を二分して戦う大規模な闘争が発生します。

盛親は後継者になる過程が異常なものであったため、豊臣政権から正式な当主として認知されておらず、官位をもらえていないままでした。

そのため、この戦いに参戦して功績を上げることで、長宗我部氏の当主として認められようとしていました。

西軍に属する

盛親は西軍に属した豊臣家臣・増田長盛との縁が深かったため、自身も西軍に属します。

盛親の「盛」の字は増田長盛から一字をもらったもので、元服する際に増田長盛にその烏帽子親になってもらった、という関係がありました。

つまり、盛親は増田長盛の庇護を受ける立場にあったことになります。

この頃の盛親には、自分の判断で利害関係を見極め、勝ちそうな東軍に属する、といった器用な立ち回りができるほどの経験も、知恵もありませんでした。

また、後継者争いの影響で家中の統制も取れておらず、補佐をしてくれる有能な重臣も欠いていたようです。

このため、さしたる考えもなく西軍についてしまったようで、それが長宗我部氏に大きな災いをもたらすことになります。

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