その死
そして1599年、秀吉の死によって政情が不安定化するさなかに病気となり、5月19日に死去しました。
享年は61でした。
すでに石田三成と徳川家康の抗争は始まっており、どちらにつくべきか、まだ若年の盛親に遺言を残すべきでしたが、これといった指示を行わないままに死去しました。
このことが、後の長宗我部氏の不幸へとつながっていきます。
以後の章で、元親死後の展開について述べていきます。
関ヶ原の戦いと、長宗我部氏の改易
【長宗我部氏最後の当主となった盛親の肖像画】
元親の死の翌年には、天下分け目の戦いである「関ヶ原の戦い」が発生します。
当主となったばかりの盛親にこの判断の難しい事態に対処できるだけの能力はなく、流されるままに西軍に所属します。
そして関ヶ原の本戦では後方に配置され、戦闘に参加することもできないまま、西軍が敗れたために撤退することになってしまいます。
その後、土佐に帰還してから徳川家康の重臣である井伊直政にとりなしを依頼します。
しかし権益を失うことを恐れた一領具足たちが反乱を起こし、これが原因となって長宗我部氏は領地を没収されてしまいます。
家康は当初、土佐の他に盛親に替わりの領地を与えるつもりでいたのですが、反乱が起きた後でその措置を取ると、反乱に屈したように見えてしまうため、取りやめとなったのです。
こうして盛親は大名の地位を失い、長宗我部家は滅亡しました。
元親の土佐統一事業もまた、水泡に帰したことになります。
大坂の陣と、盛親の最期
浪人となった盛親は京都で寺子屋の師匠をするなどして生計を立てていました。
幕府によって監視を受けており、不自由な生活を強いられました。
1614年になると、家康が豊臣家の殲滅を図る「大坂の陣」が勃発し、大坂方の要請を受けて入城します。
そして、かつての旧臣や浪人たちとともに一軍を編成し、主力部隊として戦うことになります。
1615年に行われた「大坂夏の陣」では、徳川方の藤堂家の部隊に大きな損害を与えるなどして活躍しますが、大坂方の敗北が確定すると、大坂城から逃亡します。
しかし京都に潜伏していた際に発見され、捕らえられてしまいます。
そして、六条河原で子女とともに処刑されました。
こうして長宗我部氏は完全に滅亡することになります。
過ぎたる野心が身を滅ぼすのか
ここまで見てきたとおり、元親は四国の中では秀でた英雄でしたが、中央の大勢力に対抗するだけの実力を備えることはできませんでした。
その原因は、四国という地理の条件の悪さもあれば、元親自身の能力の限界もあったでしょう。
そういった条件の悪さをなんとか克服しようとあがき、結果として多くのものを失ってしまうことになりました。
四国平定の野望に固執し、敵を多く作り、それが長男の信親の戦死につながってしまったのです。
仙石秀久の後先をかえりみない逃走は、かつて元親と戦って敗れた経験があることと無縁ではないでしょう。
信親を失ってやけになってしまったのか、家庭内の不和を招き、それが長宗我部氏の改易の原因にもなってしまいました。
元親の後半生は、それまで自分がやってきたことの報いを受けるような展開になったのだとも言えます。
元親よりももっと激しく戦国の世を生きた信長は家臣に反逆されて討たれましたし、秀吉もまたその家を自ら破壊するようにして死んで生きました。
野心によって突き動かされた人間の行く末は、たいていがそういうものになってしまうのかもしれません。
しかし彼らはあくまでも時代の子であり、戦国という時代そのものが彼らをそのような運命に導いてしまったことにも思いをいたすべきでしょう。
元親は子どもの頃は姫若子と呼ばれるような柔弱な子でしたが、それが元親の本質であり、戦国の気風にあてられて野心家となったものの、息子の死によってその空気が体から抜け出て行ってしまったのかもしれません。
松尾芭蕉は「夏草や兵どもが夢の跡」という句を詠みましたが、長宗我部氏の激しい勃興と没落の様子は、句の表す武家というものの儚さの、一つの代表的な例として、世に残されているようにも思えます。
その後の長宗我部氏
土佐の大名家としての長宗我部氏は滅亡しましたが、元親の三女の阿古姫が伊達家に保護され、その息子が仙台藩に仕えて元親の血を後世に伝えています。
この縁を頼って長宗我部氏の親類が何人か仙台藩に召し抱えられたようです。
(余談ですが、真田信繁(幸村)の子も伊達家に保護されており、伊達家は滅び行く大名家の子女たちの駆け込み寺のようになっていた観があります。)
また、元親の晩年に生まれた康豊という子がいて、足立と姓を変えて徳川家の重臣である酒井家に仕え、その子孫は5000石の領地を与えられ、家老にまで出世したと言われています。