堀秀政は織田信長や豊臣秀吉に仕え、その才能を愛された武将です。
「名人」という異名で呼ばれたことでも知られているのですが、この文章では秀政の生涯や、異名の由来を紹介していきたいと思います。
美濃で生まれ、織田信長に取り立てられる
秀政は1553年に美濃(岐阜県)で、堀秀重の長男として生まれました。
父は5千石の領地を信長から与えられていた、中堅どころの武将です。
こうした家に生まれた秀政は、13才の時に信長から小姓として取り立てられ、側近として活動するようになりました。
秀政は美少年であったことから、信長の目にとまったのだとも言われています。
しかし、秀政は諸事に細やかな配慮ができる人柄であり、その才覚を気に入られた、というのが実際のところだと思われます。
信長は見た目がよいだけの、実務の役に立たない人間を取り立てることはないからです。
行政と軍事に活躍する
秀政ははじめ、信長の側で各種の奉行を務め、行政官としての実績を積み上げていきました。
具体的には将軍・足利義昭の住まいであった本圀寺や、安土におけるキリスト教徒たちの屋敷の建築を担当しています。
やがて軍事面でも用いられるようになり、越前の一向一揆の鎮圧や、天正伊賀の乱などで戦功を立てています。
従兄弟の直政を家臣にする
こうした戦いの中で、秀政は従兄弟の奥田直政と、ある勝負をしました。
それは、ともに出陣した戦いの中で競争をして、より多くの手柄を立てた方に、手柄を立てられなかった方が仕える、というものでした。
そうすることで両者が協力し、堀か奥田か、どちらかの家を栄えさせていこう、というのが二人の勝負の趣旨です。
これに秀政が勝利を収め、以後、奥田直政は堀直政と名のりを変え、秀政の忠実な家臣として仕えるようになりました。
直政は秀政に劣らぬ有能な人物で、二人はやがて、約束通りに堀家に繁栄をもたらすことになります。
本能寺の変
秀政は1581年、28才の時に近江(滋賀県)坂田2万5千石の大名となり、順調に出世を遂げていきました。
元の家禄の5千石から5倍にもなっていますので、信長から相当に高い評価を受けていたことがうかがえます。
そして秀政は、中国地方で毛利氏と対戦している、羽柴秀吉の軍監として派遣されることになります。
軍監とは、信長に代わって地方で戦う軍団長の監督をする役目で、この時期に秀吉の陣営に参加したことが、秀政の運命に大きな影響を及ぼしました。
秀政が中国地方に着任してから間もなく、1582年になると本能寺の変が発生し、信長が重臣の明智光秀に討たれます。
これを受けて秀吉は毛利氏と和睦し、軍勢を率いて畿内に戻りました。
秀政は秀吉に積極的に協力し、光秀との決戦となった山崎の戦いでは先鋒を担当します。
そして激戦を制して秀吉の勝利に貢献しました。
秀吉もまた信長と同じく、秀政の才能を愛し、この年のうちに「羽柴」の姓を秀政に与え、側近として起用しています。
そして秀政は近江の佐和山城を与えられ、信長の後継者となった三法師の傳役(教育係)に任じられるなど、重要な役割を担いました。
これが周囲から認められたことからして、秀政に対する織田氏一族からの評価もまた、相当に高かったことがうかがえます。
長久手の戦い
秀政の軍事的な才能がいかんなく発揮された挿話として、1584年の長久手の戦いがあります。
この時に秀吉は10万もの大軍を動員し、徳川家康・織田信雄の連合軍3万と対峙していました。
秀吉の方が戦力的には有利だったのですが、家康は尾張(愛知県)の小牧山城に立て籠もり、守りを固めて出撃しようとはしませんでした。
このために両軍はにらみあいとなり、戦況が膠着します。
この状況を打破しようとして、池田恒興という武将が秀吉に対し、別働隊を派兵して、家康の本拠である三河(愛知県西部)を攻略する作戦を提示しました。
これによって家康の足元を崩し、小牧山城から撤退させようとしたのです。
秀吉はこの作戦を承認し、甥の羽柴秀次を総大将とし、そして秀政にも出撃を命じました。
別働隊は池田隊6千、森長可(池田恒興の娘婿)隊3千、羽柴秀次隊8千、そして秀政が3千、合計で2万という陣容になりました。
【次のページに続く▼】