松永久秀は本当に極悪人だったのか?

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義輝の側近になり、三好氏と将軍家を取り持つ

久秀は義輝から桐紋の使用を許され、従四位下の官位を与えられるなどの好待遇を受けています。

この時点で主君の長慶や義興と同じ身分に上っており、幕府や朝廷から、三好氏の家臣の中でも、特に重要な人物だと見なされていたことがうかがえます。

久秀はかつて、義輝と長慶が争っていた頃には、義輝を「悪巧みをして長慶との約束を何度も反故にしているので、京を追放されるのは天罰である」と弾劾していたこともありましたが、この頃には関係が改善されていたようです。

久秀は義輝の側に仕え、御供衆として数多くの仕事をこなした記録が残っています。

久秀は様々な仕事を滞りなくこなせる器用な人物でしたので、やがて義輝からも一定の信頼を得るようになりました。

こうして久秀は将軍家と三好氏の関係の改善に成功し、畿内の情勢を安定させる上で、重要な役割を果たしています。

畿内における最大の実力者となる

また、継室(後妻)として公卿である広橋国光の妹を迎えたことで、朝廷との関係が深まっていきました。

こうして三好氏と将軍家と、朝廷とも良好な関係を築いたことで、久秀の権勢は絶頂期を迎えます。

この頃の久秀について、「天下の支配権を我が手に奪ってほしいままにし、畿内では彼が命令しなければ、何事も行われなかった」と書かれた記録が残っています。

このような異例の出世を遂げたところから見て、久秀は単に能力があっただけでなく、人々の間を如才なく立ち回るのが得意で、身分の高い人たちに好かれる術を心得ていたのでしょう。

三好氏が最盛期を迎え、大和一国の主となる

将軍との抗争が終わり、政情が安定したことで、三好氏は畿内で順調に勢力を伸ばし、ついには10ヶ国を支配するほどになりました。

その過程で、長慶は久秀に大和一国を支配する権利を認めています。

これによって久秀の権勢はさらに強まり、国持ち大名と同等の地位を得ています。

その後は河内(大阪府)で敵対する畠山高政を破って紀州に追放し、長慶に逆らった政所執事の伊勢貞孝を討ち果たすなど、武功を積み重ねていきました。

こうして久秀がさらに出世を遂げていく一方で、三好氏一族に不慮の死が発生し、順調だった道行きに陰りが見えてきます。

三好氏の一族が次々と死去する

1561年に、長慶の弟である十河一存(ぞごうかずまさ)が病死し、1562年には同じく弟の三好実休が戦死し、そして1563年には嫡男の三好義興が病死するなど、長慶の身辺で不幸が相次ぎます。

このため、畿内における覇権を確立しつつあった長慶は、急速に気概を失っていきました。

義興や十河一存に関しては、久秀が暗殺したという説があるのですが、確たる証拠はなく、憶測のたぐいでしかありません。

久秀はこの後も三好本家に対しては忠実に尽くしており、後世から久秀が極悪人と見なされたことにより、そのような風評が真実とみなされることが増えたようです。

また、久秀が主家に匹敵するほどの実力を備えていたことから、諸人に妬まれることも多く、このために悪評が立てられやすかった、ということでもあるようです。

長慶の死と、義継の継承

1564年になると、義興の後を追うようにして、長慶もまた43才の若さで病死してしまいます。

このため、三好氏は長慶の甥である三好義継が継承し、それを久秀と、三好三人衆と呼ばれた三好長逸(ながやす)、三好宗渭(そうい)、岩成友通らの重臣たちが補佐していくことになります。

しかし、この後に三人衆と義継が起こした大事件によって、畿内の情勢は激変しました。

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