敬哀皇后は劉禅の正室になった女性で、張飛の長女です。
母は夏候覇の従妹で、薪を取りに出ていたところを張飛が捕まえて、妻にしたという経緯がありました。
敬哀皇后は諡で、名は伝わっていません。
221年に、皇太子だった劉禅の妃として宮中に入っています。
そして223年に劉禅が蜀の皇帝になると、皇后に立てられました。
その後、237年に逝去し、南陵に埋葬されています。
正史では人柄を伝える挿話などは掲載されておらず、記述が非常に簡素になっています。
張皇后
張皇后は、敬哀皇后の妹です。
237年に姉が亡くなると、宮中に入って貴人となりました。
(貴人は女官の位で、皇后に次ぐ地位です)
そして翌238年の正月に、次のような命令書を劉禅から受けました。
「朕は大業を継承し、天下に君臨して、郊廟と社稷を奉じている。
いま貴人を皇后とし、行丞相事・左将軍の向朗に節を持たせて使わし、璽綬を授ける。
主婦の役割を努めてこれを修め、厳粛に祭祀に携わるのだぞ。
皇后よ、それやこれを敬め」
こうして姉の後を受け、妹もまた皇后になりました。
劉禅とともに洛陽に移る
263年に蜀が滅亡すると、翌264年に、劉禅の一族は魏の首都である洛陽に移住することになりました。
張皇后はこれに同行し、洛陽に移っています。
記録はここまでとなっており、いつ死去したのかは不明です。
劉禅の皇后については、特に記録する者がいなかったのか、姉妹とも、ごく短くしか正史には記載されていません。
子どもについて
劉禅と姉妹との間には、子どもはいたものの、娘だったか、あるいは男子でも、成人するまでは育たなかったようです。
敬哀・張皇后らの侍女である、王貴人が生んだ子が劉禅の皇太子になっていることから、それがわかります。
一方で、次に紹介する挿話から、姉妹との間に子どもがいたことは、明らかになっています。
母の挿話
『魏略』という史書には、姉妹の母についての記録があります。
夏候覇の十三、四の従妹が、薪を取りに出かけた時に、張飛に捕まりました。
張飛は彼女が良家の出であると知ると、そのまま自分の妻にします。
夏候氏は豫州・沛国が郷里で、劉備は豫州刺史(長官)だったことがありますので、その時期のできごとだったのだと思われます。
やがて彼女は二人の娘を生み、後に敬哀皇后と張皇后になりました。
このような関係にあったため、219年に伯父の夏候淵が、漢中で劉備に敗れて討ち取られると、張飛の妻になっていたこの女性は、埋葬して欲しいと願い出ています。
夏候覇と劉禅
夏候覇は夏候淵の子で、魏の右将軍でしたが、親しい者たちが政争に敗れて失脚したので、累が自分に及ぶのを恐れ、蜀に亡命しました。
夏候覇がやってくると、面会した劉禅は「君の父は戦陣の中で命を落としたのであって、わしの父が直接手を下したわけではないぞ」と言います。
そして自分の子どもを指さして「この子は夏候氏の甥に当たる」と紹介し、夏候覇の気持ちを和らげました。
このようにして蜀の王室には、夏候氏の血も入っていたのでした。
張飛の乱暴なふるまいが、この縁を生んだことになります。
夏候覇はこういった事情によって重用され、蜀の車騎将軍(軍の序列第三位)に任命されました。
ちなみにこれは、生前の張飛と同じ地位です。
そして姜維とともに出陣し、たびたび魏軍と戦いました。