三顧の礼とは

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三顧の礼は、三国志に登場する劉備が、諸葛亮を三度も訪ねて面会し、彼を軍師として迎えた故事から生まれた言葉です。

当時、劉備は左将軍という高い地位についており、戦乱の中で活躍し、天下に名を知られた英傑でした。

これに対し諸葛亮はまだ無名で、友人など一部の人々に、その才能を知られるだけの存在でした。

さらに当時、劉備は40代で、諸葛亮は20代であり、年齢面も含めてはるかに目上の立場だったのですが、その劉備の方から何度も訪ねるのは、破格の待遇だったのだと言えます。

このため、三顧の礼は「目上の人が心を尽くして目下の人にお願いをすること」や「手を尽くして有能な人物を迎えること」などを意味します。

劉備が諸葛亮を訪ねたきっかけ

劉備は207年ごろ、けい州を支配する劉表の客分となり、新野に駐屯していました。

その際に荊州の名士たちと関わりを持ちますが、優れた人物鑑定家として知られる司馬徽しばきと会った時に、世間のことをたずねました。

すると司馬徽は「このあたりに臥龍がりょう鳳雛ほうすうと呼ばれる、二人の英傑がいます」と劉備に教えます。

臥龍は「眠れる龍」を意味し、鳳雛は「鳳凰ほうおうひな」を意味します。

どちらも、まだ世間には知られていないが、優れた人物だという意味です。

劉備が誰なのかとたずねたら、「諸葛孔明と龐士元です」と答えました。

こうして劉備は諸葛亮の存在を、初めて知ることになります。

徐庶に会うように勧められる

また、諸葛亮の友人である徐庶は、劉備のところに頻繁に出入りしていましたが、劉備は彼を有能な人物だとみなしていました。

あるとき徐庶が「諸葛孔明は優れた人物ですが、まだ世に出ていません。将軍は彼と会いたいと思いますか?」と質問をします。

すると劉備は「その名は知っている。君が連れてきてくれないか」と求めました。

すると徐庶は「孔明はこちらから行けば会えますが、無理に連れてくることはできません。将軍の方から来訪されるのがよろしいでしょう」と答えます。

自分が評価している徐庶が、そこまで言うなら会ってみようかと思い、劉備は諸葛亮を訪ねます。

しかしなかなか会うことができず、三度目にして、ようやく初めて顔を合わせることができました。

これによって三顧の礼の言葉が生まれます。


【自分から諸葛亮を訪ねた劉備】

諸葛亮と親しく交わる

劉備は諸葛亮に対し、「私は衰退していく漢王朝を支えようとしているが、知恵も術策も不足しているので、つまづいてしまった。しかしいまだ志は捨てきれない。君はどうすればよいと思うか」とたずねます。

諸葛亮はこれに対し、曹操は強大で、今の時点で対等に戦える相手ではないため、江東の孫権を味方につけることを勧めます。

その上で「経済力があり、交通の要所である荊州を抑え、さらに肥沃な益州を得て勢力を築くのです。そして孫権とともに戦えば、曹操に勝利することも可能になります。漢王朝を復興させることもできるでしょう」と大陸全体を視野に入れた、雄大な戦略案を語りました。

劉備は諸葛亮の優れた知性に感服し、親しく交わるようになります。

劉備の元には、関羽や張飛などの優れた武将はいましたが、智謀に優れ、戦略を立てられる人間を欠いていました。

このため、劉備にとって諸葛亮との出会いは、大きな意味があったのです。

やがて劉備は諸葛亮を軍師として迎え入れ、彼の戦略を実行に移し、蜀漢を建国するに至りました。


【劉備に請われて軍師となった諸葛亮】

『出師の表』の記述

高名な劉備の方から訪ねて来たできごとは、諸葛亮にとって印象深いものだったようで、後に北伐を行う際の決意表明書である、『出師すいしの表』でもこのことが触れられています。

諸葛亮は「先帝(劉備)は、わたくし(諸葛亮)を身分いやしき者とされず、まげてご自分の方から訪問なされました。三度あばら屋を訪れて、臣に当時の情勢をご質問なされました」と記しました。

この記述から、三顧の礼は実際にあったことだとわかります。

二人の出会いが歴史の流れを変えたことから、この故事は有名なものとなったのでした。