勤勉な者を罪に問わないように働きかける
曹沖は刑罰を受けようとしている者を見つけると、いつもその者に無実の事情がないかを調べ、密かに助けてやりました。
そして勤勉な官吏が、過失のために罪に触れてしまった場合には、常に曹操に対し、その者を許してやるべきだと進言をしています。
曹沖は物事を的確に把握する力と、仁愛の心が生まれながらに備わっており、そのうえ容貌が美しく、常人とは異なった性質を持っていました。
このため、曹操は曹沖に特に目をかけ、かわいがるようになります。
【曹沖を寵愛した曹操】
後継者に据えられそうになるも、早世する
曹操は群臣たちに向かってたびたび曹沖を褒め称え、後継者にしたいと望んでいました。
しかし208年、13才の時に、曹沖は重病にかかってしまいます。
すると曹操は自ら曹沖のために、病が回復するようにと祈祷を行いました。
ですがこの祈りもむなしく、曹沖は回復せず、そのまま亡くなってしまいます。
これより少し前、曹操は名医として知られる華佗を、不服従を理由に処刑してしまっていました。
そのために曹沖を救うことができなかったのではないかと、ひどく後悔するはめになっています。
曹操が曹丕に不用意な発言をする
曹丕が落胆する曹操を慰めようとすると、曹操はこう言いました。
「これはわしにとっては不幸だが、お前たちにとっては幸いだ」
曹操は曹沖を後継者にしようとしていましたが、彼が亡くなったために、他の子供たちにその機会が訪れることになったのでした。
このように言われたため、曹丕は皇帝になった後、いつも「長兄の孝廉(曹昂)には限界があったが、もしも倉舒(曹沖)が生きていたら、私が皇帝になることはできなかっただろう」と述べています。
曹操の不用意な発言によって、曹丕を初めとする、他の子供たちの心は傷ついたものと思われます。
ちなみに、曹丕は曹沖よりも9才年長でしたので、弟に後継者の地位を奪われそうになっていたのでした。
死後婚を行う
曹操はその後、曹沖について語る機会があると、そのたびに涙を流しました。
やがて曹操は甄氏(曹丕の妻)の亡くなった娘を曹沖と結婚させ、一緒に葬ります。
こういった措置を死後婚と言います。
一度は反対された
これより以前のこと、曹操ははじめ、邴原という官吏の娘が、曹沖と同じ時期に亡くなったので、二人を合葬をしたいと希望しました。
すると邴原は「それは聖賢(孔子)の教えに反する行為です」と理由を述べて断りました。
曹操もそれで引き下がっていることから、死後婚は同時の常識からは外れた行いだったようです。
それをあえてしたのは、曹操がそれだけ曹沖に思い入れていたことの証なのでしょう。
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