下弁で劉備軍と対峙する
曹洪はその後も、曹操の遠征に従って活躍し、都護将軍に昇進しました。
そして217年に劉備軍が下弁に攻めこんで来た際には、司令官として迎撃にあたります。
この時に親類の曹休が幕僚としてつけられましたが、曹操は身分こそ曹洪が上であるものの、曹休に「おまえは位は一武官にすぎないが、実質的には司令官なのだぞ」と言い聞かせました。
曹休は曹操の甥でしたが、実の子のようにかわいがられています。
このため、曹操はこの機会に曹休に大きな仕事をさせたいと考えたのでしょう。
曹洪はこの措置に逆らわず、年下の曹休に作戦を任せることにしました。
曹洪も、なかなか度量があったと言うべきでしょう。
曹休の意見を採用して張飛・呉蘭に勝利する
劉備は将軍の張飛と呉蘭を出撃させ、曹洪軍の後方を襲撃させようとしました。
このために、どちらを先に迎撃するかで曹洪陣営の意見が割れました。
すると曹休が、敵の体勢がまだ定まっていないことを指摘し、「呉蘭を急襲して打ち破れば、張飛は自ずと敗走するでしょう」と主張します。
曹洪はこの意見を採用し、呉蘭に集中攻撃をしかけて打ち破ると、はたして張飛は逃走し、この戦いに勝利することができました。
こうして曹洪は司令官としても実績を上げ、その地位はゆるぎないものになったかに見えました。
曹操に忠告される
曹洪は下弁を平定すると間もなく、曹操から書簡を受け取りました。
そこには「昔、漢の高祖(劉邦)は財貨をむさぼり、女色を好んだが、張良や陳平といった臣下たちがその欠点を矯正した。いま、曹休や辛毗の心配は軽くないぞ」
辛毗は曹休と同じく、下弁平定のために曹洪の幕僚になっていた人物です。
こうした書簡が送られたことから、曹洪の欲深さは年齢を重ねてもまったく衰えておらず、むしろ強まっていたことがうかがえます。
曹洪はそのことで、身の破滅を招き寄せる直前にまで、追い込まれることになります。
位が高まるも、曹丕に死刑を執行されそうになる
220年に曹操が逝去すると、子の曹丕が魏の皇帝に即位します。
すると曹洪は野王候に位が進み、領邑が千戸加増され、合計で二千百戸となりました。
そして衛将軍に任命され、ついで驃騎将軍になります。
これは魏軍における二番目に高い地位であり、長年の功労者にふさわしい待遇を受けたのだと言えます。
しかしながら、曹丕は個人的に曹洪を憎んでおり、このためにやがて処刑されそうになります。
憎まれた理由
曹丕は若い頃、金銭に余裕のある曹洪に、借金を申し込んだことがありました。
しかし曹洪はケチだったので、これを断ってしまいます。
曹丕は執念深く、そして好悪の感情が激しい人物でした。
このため皇帝になると、若いときの復讐をするために、曹洪の食客が罪を犯したことを理由に、曹洪を処刑しようとします。
助命嘆願があいつぐ
曹洪にはケチだったり、貪欲で好色だったりと性格的な欠点はありましたが、曹操の命を救い、以後は忠実に務めた功臣でしたので、群臣たちは曹丕に助命を嘆願します。
しかし曹丕は一切耳を貸さなかったので、曹洪は窮地に陥りました。
すると曹丕の母・卞太后がそのいこじさに腹を立て、「あなたの父上が敗れたとき、子廉(曹洪)が助けなければ、あなたが皇帝になることもなかったのですよ!」と曹丕を叱りつけます。
母に怒られ、もっともな理由を提示されては、さすがに曹丕も逆らえなかったようで、死刑はとりやめとなりました。
しかしそれでも、曹洪の財産は没収しています。
そして爵位を落とし、官職を免じ、領地を削りました。
しかし借金を断っただけで、そこまでされるいわれはないのではないかと、当時の人々は釈然としませんでした。
曹丕は借金を断られたことを恨んでいたのもあったのですが、一方で彼は折り目正しく、法規を守る、慎み深い人間を好んでいました。
このため、それと正反対の曹洪を憎む気持ちが強くなっていたのです。
それが曹洪に対する、過剰なまでに厳しい対応に反映されたのでした。
曹洪は謝罪し、曹叡の時代に復位する
曹洪は、自分はもう助からないだろうと思ってあきらめていましたが、思わず釈放されたため、大いに喜びました。
そして自分の強欲な性質に罪があったことを認め、曹丕に謝罪しています。
226年には曹丕が亡くなり、かわって曹叡が皇帝になりました。
すると曹叡は曹丕のやりすぎをただすため、曹洪を後将軍に任命し、楽城候として千戸を与えます。
そしてしばらくすると、再び驃騎将軍に任命し、曹洪の身分はすっかり元に戻りました。
曹丕に処刑されそうになったのにこりて、行状も改まっていたのでしょう。
こうして救われた曹洪は232年に逝去し、恭候と諡されました。
子の曹馥が後を継いでいます。
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