太尉は中国の官職です。
秦や前漢の時代に設置された、国軍の総司令官の地位でした。
前漢の大尉
前漢では武官の最高位でしたが、文官の最高位である丞相の下に置かれています。
さらに太尉に就任するのは主に文官であり、武官が大きな権限を握って暴走しないよう、抑圧されていたのでした。
これは現代の、文民統制に近い仕組みだったのだと言えます。
これによって謀反が発生しにくいようになっており、中国では武士階級が形成されませんでした。
この文官優位の方針は以後の中国の歴史において、ずっと継続されていきます。
前漢において、太尉は常任ではなく、空席のままとなっていることがしばしばありました。
このため、武帝の時代(前139年)にいったん廃止され、丞相が総司令官を兼任するようになります。
そして軍のトップは、大司馬という地位についた将軍が務めるようになりました。
いずれにしても、文官が軍を抑えていたことに変わりはありませんでした。
後漢の太尉
その後、後漢の時代になると、建武27年(51年)に大司馬が太尉に改称され、復活しました。
そして三公のひとつとなり、司徒や司空と並ぶ最高位になっています。
※三公は、最高位の三つの大臣職のことを指します
後漢の太尉が軍を直接指揮することはなく、国防の方針を提案したり、将軍の功績を考査する立場でした。
ですので軍人ではなく、国防大臣の地位だったのだと言えます。
三国志では
三国志の人物の中では、曹操の父・曹嵩が就任したことがあります。
このことから、曹操の家は元から身分が高かったことがわかります。
また、曹操の才能を初めて見いだした橋玄も、この地位にありました。
やがて曹操が208年に三公を廃止したため、太尉もいったん消滅しています。
これは曹操が丞相となって、軍事を含む全ての権力を、自分に集中させるようにしたためです。
やがて曹丕が220年に魏を建国すると、三公を復活させました。
しかし、この頃には実権が乏しくなっており、功労者に与えられる名誉職に変貌しています。
魏では賈詡や鍾繇、司馬懿らが就任しました。
司馬懿は太尉としては珍しく、自ら将兵を率いて戦場におもむいています。
【驃騎将軍や太尉など、魏の高官を歴任した司馬懿】
それ以後
隋や唐の時代にも設置されましたが、実権はありませんでした。
宋(960-1127年)では三公の首位になったり、皇子が任命されたりと、身分が変遷していきます。
しかし元(1271-1368年)では設置されず、これ以後は完全に消滅しています。