秀吉による織田氏からの政権の簒奪
光秀は直接信長を殺害するという暴挙に出たために、わずか13日後には自らが滅ぼされました。
しかし秀吉はより狡猾であったためか、あまり後の世から織田家から政権を奪ったことについて、責められていないようです。
秀吉は光秀を討った後、信長の後継者を決める清須会議において、信長の嫡孫でまだ幼児であった三法師を後継者に据えることに成功します。
三法師は信長の後継者として公認されていた信忠の子どもであるから、という正当化できる理由は用意していましたが、秀吉の真意はもちろんそこにはありません。
ちなみに信忠は本能寺の変の際に京都に滞在しており、二条城で明智軍に包囲され、自害しています。
光秀があのタイミングで行動を起こしたのは、信長と信忠の2人を同時に倒せるという見込みがあったからなのかもしれません。
そのもくろみ通り、当主と後継者を同時に失った織田氏は急激に衰退し、その果実を秀吉が受け取ることになります。
三法師を選んだ理由
信長にはすでに成人している信雄、信孝などの子どもたちがいたわけですが、その中であえて秀吉が三法師を選んだのは、自分では何もできない幼児を当主に据えることによって織田氏を無力化し、その間に自分が政権を奪い取ってやろう、という意識を濃厚に持っていたことを表しています。
この意図を理解した上で丹羽長秀らの諸将が秀吉に同調しており、反対したのは柴田勝家でした。
勝家は三男の信孝を推しますが、光秀を討った秀吉の発言力が勝っており、三法師が後継者となりました。
勝家は秀吉への対向上、信孝を推したと見ることもできるでしょうが、勝家だけが織田氏の番頭としてその勢力を支える意識を持っていた、と見ることもできるでしょう。
勝家は信長の父の信秀の代から仕えており、織田氏の人々からすれば頼りがいがあったことことでしょう。
より織田氏との関係を深めるため、信長の妹であるお市の方と結婚もしています。
こうした流れによって、清須会議の後で信孝と柴田勝家が手を結んで秀吉と対決します。
織田氏の勢力を守ろうとする集団と、織田氏を衰退させてその勢力を奪ってしまおうとする集団が争った、と言えます。
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