明智光秀と羽柴秀吉はどうして織田氏を衰退させたのか?

スポンサーリンク

信長に仕えるまでの2人

明智光秀は美濃の豪族の出身だったと述べましたが、彼の家は美濃の国主・斎藤道三が息子の義龍と争った際に、道三に味方しました。

やがて道三は義龍に敗れて滅亡し、明智氏は居城を攻め落とされ、一家離散の憂き目にあったと伝えられています。

その後、光秀は越前を支配する朝倉氏に仕えましたが、重く用いられることもなく10年の時を過ごしました。

この時の光秀の身分には諸説あり、100人の兵士を指揮する騎乗の士の立場であった、もしくは部下がひとりもいないほど低い身分であった、とも言われています。

部下がひとりもいない身分であった、というのは太田牛一という信長配下の史家によって記された資料(太田牛一旧記)に記載されているので、信憑性は高いかもしれません。

そのような低い身分に置かれていたのだとすると、身一つで信長に仕えた秀吉と、そこまで境遇は大きく変わらなかったことになります。

光秀自身も「瓦礫のように落ちぶれ果てていた」と自らのことを書き残していますので、朝倉氏では相当に不遇であったのは確かだと思われます。

これは秀吉についても同じで、信長に仕えるまではよほどにひどい世渡りをしていたのか、当人が過去について語る時には、誰にも法螺や嘘とわかる話ばかりをしていたそうです。

ともあれ、2人ともぱっとしない経歴の持ち主だったのは確かであり、それが信長に仕えることによって一気に運命が反転していくことになります。

光秀も秀吉も信長の支配地域の拡大に貢献し、光秀は1571年に、秀吉は1573年に、それぞれ数万石の領地を預かる大名となり、やがてそれは数十万石に増えていきます。

さらには信長の他の家臣を指揮する権限も与えられた、軍団長にもなっていきます。
自分一人ですべてをやらなければいけないような身分から、数万の人数を指揮できるほどの権限を与えられたのです。

光秀は「瓦礫のように落ちぶれ果てていた自分を召しだしそのうえ莫大な人数を預けられた。一族家臣は子孫に至るまで信長様への御奉公を忘れてはならない」といったことを書き残していますが、これは正直な実感だっただろうと思います。

光秀であれば信長に仕えて10年ほど、秀吉は25年ほどでそのような身分に登りました。

光秀は短期間で急速に出世していますが、信長の支配地域が勢いよく伸び始める時期から仕えたので、その出世も早かったのです。

秀吉はもともとは武士ですらなく、信長が尾張の半分しか支配していない時代から仕えていますので、長い時間をかけて段階的に出世していっています。

やはり信長の勢力が膨張しはじめてからは、その出世は急速になりますが。

秀吉の機嫌取り

秀吉は信長の機嫌取りに努めていた、というのはよく知られている話です。

信長が驚くほどたくさんの贈り物をしたり、信長から養子をもらって自分の跡継ぎにしたりと、出世してからも信長に決して嫌われないようにと気を配っていた様がうかがえます。

特に養子をもらったことにより、秀吉がいくら信長から領地や報酬をもらおうとも、それは最終的には信長の息子、すなわち織田氏に戻っていくことになるわけです。

なので、信長は安心して秀吉に大きな仕事を任せられました。

秀吉は養子をもらうことによって織田氏の一族の中に入り込んだのだ、とも言えるでしょう。

ここまで思い切ったことをやれる秀吉はやはりただものではありません。

しかし一方では、思い切りがよすぎてかえって怖さを感じるところがあります。

信長に対して屈従しすぎているきらいがあり、それが反転した時には恐ろしい害をもたらすのでは、と感じさせるような。

【次のページに続く▼】