光秀の機嫌取り
一方、光秀もまた信長の機嫌取りにはかなり気を使っていた、と言われています。
これはルイス・フロイスの書いた「日本史」にそう記されているそうです。
光秀は信長の趣味・嗜好について調べあげ、贈り物を絶やさないようにし、信長の寵愛を受けられるようにと気を配っていた、という意味のことが書かれています。
今までに語られている光秀の姿とはかなり違っているようですが、新参の光秀がどうしてここまで急速に出世できたのか、その理由の一端にはそうしたふるまいの裏付けがあったからだ、と解釈するのは理にかなっていると思われます。
もしも名門の出身だったのだとしたら、なかなかプライドが邪魔してそういうふるまいには出れないでしょうから、「実は出身の身分は低かった」という説とつなげると、筋が通ってきます。
2人とも若いころには苦労していましたから、主人の歓心をつなぎとめるためのふるまいが、いつの間にか身についてしまっていたのかもしれません。
信長からすれば自分に好かれようと努力しており、かつ能力が高い2人がいたわけですから、これを重く用いて大きな仕事をさせようと、そのような気分になってもおかしくありません。
信長は非常に鋭い頭脳の持ち主でしたが、生まれついての大名であるがゆえの甘さもあり、そのようなふるまいを続けられると、いつの間にか油断してしまうところがあったかもしれません。
本能寺の変
光秀が信長を殺害した「本能寺の変」は有名な事件ですが、その動機はわかっていません。
光秀があまりに早く討伐されてしまったため、動機を言い残すことも書き残すこともしていないからです。
ただ、光秀が信長の殺害を実行したのは、それをやろうと思えばやれる環境にいたからだ、というのは間違いありません。
光秀はこの頃には近畿地方の織田氏傘下の大名たちを統括する立場にありました。
そして一方で、織田氏の他の軍団は日本の各地に散っており、信長の身辺の近くにいた大きな軍団は光秀のものだけになっていました。
つまり光秀はこの時期、信長の近衛兵団長のような立場にあったわけです。
ですのでその気になれば光秀は、容易に信長を殺害できます。
それだけ信長から信頼されていたわけですが、光秀はいつの間にかその信長を殺害し、自分が取って代わることを志すようになっていました。
個人の内面を推し量るのは難しい(というか不可能な)ことなので、ここでは動機について詮索することはしません。
しかし光秀があっさりと信長を殺害する気になり、実行したのは、結局は信長とは一代限りの、個人同士の付き合いでしかなかったから、というのは大きかっただろうと思います。
「譜代」という言葉がありますが、これは何代にも渡ってその家に仕えている家臣のことを言います。
そういう家臣が多い家では、主従は互いに親戚なども含めて重層的な人間関係の中に縛られていて、そうそう主人を殺害して取って代わってやろう、という思考には至りません。
後に天下を制した徳川氏は、そうした譜代の家臣たちを中心に強靭に組織されていて、その結束が最終的な勝利をもたらしました。
それに比べると新参者たちが大きな権限を与えられている織田氏の組織構成はいかにも脆弱で、いつ崩壊してもおかしくない危うさを含んだ繁栄だった、ということになります。
そういう道を選んだからこそ織田氏は急速に膨張したわけですが、同時に急速に縮小したのでしょう。
光秀の孤立と滅亡
光秀はひとりで信長の殺害を決意したようです。
それを思いついた時に相談する相手も、止めてくれる相手も彼は持っていませんでした。
その証拠に、明智氏とつながりの深い細川氏にすら、本能寺の変の後に味方をしてもらえていません。
これは細川氏の当主であり、古い付き合いの藤孝にも事前に信長を討つことについての相談をしていなかったためでしょう。
これが譜代でない人間に大きな権限を与えることの弊害なのだと思います。
他の家臣たちとのつながりが薄いため、個人の思考によって暴走する可能性が高くなってしまう。
信長を殺害した後で明智氏に味方をする大名はほとんどおらず、本能寺の変からわずか13日後に光秀は討たれ、明智氏は滅亡しています。
仕えて14年で当時の先進地帯である近畿地方を任せられ、大大名となるほどに出世したのに、その終わりはあっけないものでした。
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