長宗我部元親 土佐から四国統一を目指した「鳥無き島の蝙蝠」の生涯について

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四国統一戦と信長の介入

土佐の統一には14年を要しましたが、四国の他の国々への侵攻は、もっと早い速度で進んでいきました。

土佐の北東にある阿波は、三好氏とその一族である十河氏が支配していました。

その中でも特に十河存保という武将が強い抵抗を見せ、元親の宿敵とも呼べる存在になっていきます。

しかし元親は激しい抵抗にあいながらもこれらを順次撃ち破り、1580年ごろまでには阿波・讃岐両国をほぼ制圧します。

残る伊予は、守護である河野氏が毛利氏の支援を受けて頑強に抵抗したため、なかなか侵攻が進まず、戦いが長期化して行きます。

そしてこの頃になると信長の態度が変わり、元親に阿波半国と土佐の領有を認めるかわりに臣従せよ、と通達して来ます。

すでに信長は近畿地方の制覇を完了していて、他の地方への侵攻を本格的に開始していました。

そうなると四国統一を果たしそうになっている元親の存在は邪魔なものでしかなくなっていました。

そのため、元親の野望に待ったをかけてきたのです。

信長と断交する

ここで元親は引き下がらず、信長と断交します。

自らの勢力の独立と、野心の達成を目指す道を選んだわけです。

元親もまた天下を志す人間でしたので、信長とは遅かれ早かれ断交することになっていたでしょう。

しかし。この時点での信長と元親の実力差は、天と地ほども開いていましたので、まともに戦っても元親に勝ち目はありません。

このため信長と断交すると、家臣となっていた三好氏の旧臣などが織田方に寝返るなどして、元親は窮地に立たされます。

そして1582年には信長の三男・織田信孝を総大将とする四国攻撃軍が編成され、いよいよ元親は滅亡の危機に瀕することになりました。

しかし四国攻撃軍が渡海する予定になっていた6月2日、まさにその日に「本能寺の変」が発生し、信長は家臣の明智光秀に討たれました。

このため四国攻撃軍は解散となり、元親はかろうじて危地を脱することができました。

四国平定と秀吉との戦い

信長死後の間隙をついて、元親は再び四国平定に乗り出します。

長年の宿敵であった十河存保を撃ち破り、阿波の完全な支配に成功します。

そして伊予戦線は毛利氏の介入によって苦戦していましたが、1585年までにはほぼ制圧に成功し、四国の平定を成し遂げました。

この間、中央では信長の後継者の地位をめぐって羽柴秀吉と柴田勝家が賤ヶ岳で対戦しています。

この際には元親は柴田側につき、秀吉の軍勢と対決しています。

また、秀吉と徳川家康が戦った小牧・長久手の戦いの際にも秀吉と対立し、秀吉が送り込んできた仙石秀久と対戦しています。

この時に仙石秀久を苦もなく撃破しますが、このことが後になって長宗我部氏に災いとなって降りかかることになります。

ともあれ、元親はついに念願であった四国平定の野望を達成したことになります。

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