張裔 孫権の追跡を逃れ、諸葛亮の副官を務める

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諸葛亮を称える

張裔は常に「公(諸葛亮)は恩賞を与えるに際しては、遠くにいるもののことを忘れず、刑罰に際しては、近くにいるものにおもねらない。

封爵は勲功なくして手に入れることができず、刑罰は高い身分や権勢によって免れることはできない。

これこそが賢者も愚者も、すべてわが身を忘れて努力する理由である」

と諸葛亮を称賛していました。

諸葛亮は公正であることで知られていましたが、それはこのような方針を堅持することによって、生じた評判であるようです。

一方で張裔は、当人は公正ではなかったのですが、諸葛亮が公正であることには大きな意味があると、認識していたのでした。

人のよさがわかっても、なかなかそれを自分に反映させるのは難しい、ということなのかもしれません。

諧謔を交えた手紙を送る

この翌年、張裔は漢中にいる諸葛亮のもとに、事務の打ち合わせのために赴きました。

それを見送る者は数百人もおり、車や馬が道路いっぱいに満ちあふれるほどでした。

丞相の長史にはこれほどの権勢がありましたが、張裔は親しい人にあてた手紙で、次のように述べています。

「最近旅行に出かけましたが、日夜来客に接し、休息する暇もありませんでした。

人は丞相長史を尊敬なさるようですが、一介の男子である張裔はそのお供でしかないのに、疲労のあまりに息もたえだえとなっています」

このように張裔は、ユーモアのセンスを持った人物でもありました。

友人の遺族の世話をする

張裔は若い頃、犍為けんい郡の楊恭と仲が良かったのですが、楊恭は若死にをしてしまい、その遺児はまだ数才にもなっていませんでした。

このため、張裔は楊恭の遺族を向かえ入れ、家を分けてそこに住まわせ、自分の母に対するようにして、楊恭の母に仕えます。

やがて楊恭の子が成長すると、彼のために妻をめとってやり、田地や宅地を買い与え、一家を構えさせました。

むかしなじみを大事にし、没落した親類の面倒を見てやるなどし、その義行は大変に行き届いたものでした。

このあたりは岑述と争ったことと表裏一体で、張裔はよくも悪くも、情の深い人物だったのだと思われます。

死去する

張裔は輔漢ほかん将軍の官位を加えられましたが、長史を兼務するのは元の通りでした。

やがて230年に亡くなり、蒋琬しょうえんがかわって長史となります。

子の張ぼくが跡を継ぎ、三つの郡の守監軍を歴任しました。

張毣の弟の張いくは、太子の中庶子(側近)となっています。

張裔評

三国志の著者・陳寿は張裔を次のように評しています。

「張裔は明敏で、状況に応じて臨機応変に対処した。

記録に値する人物である」

季漢輔臣賛きかんほしんさん』では、次のように評されています。

「張裔は聡明で、機敏さと慈愛を合わせ持っていた。

将来の理想を語り、身近な問題にも対処し、時代の一翼を担った」

張裔はいくらか人格的な欠点もあったものの、致命的なものではなく、能力の高さを称賛されています。

呉に追いやられても孫権の追跡をかわして戻ってきたあたりも、蜀からの評価が高まった要因になっているのだと思われます。