改元の頻度
平安時代の中頃までは、改元をする機会は少なかったのですが、それ以後は、天皇一代につき、何度も変わるのが当たり前になっていきます。
多いときには、一代の間に7、8回も改元されることもあり、1年もたたないのに改元されることすらありました。
例えば二条天皇は在位が7年でしかないのに、5回も改元しています。
また、四条天皇は在位10年で、6回も改元しています。
このようにして、改元は頻繁に行われたのですが、それにはいくつかの基準がありました。
祥瑞によって改元する
すでに白雉のところで紹介していますが、祥瑞が発生したときに改元をする、というのがまずあります。
これは霊獣や奇獣、慶雲や珍宝など、まれにしか見られない吉兆が見つかった際に行われる改元で、それらを祝福してなされるものです。
これに該当するのは、白雉・朱鳥・大宝・慶雲・和銅・霊亀・養老・神亀・天平などがあります。
雉や鳥、亀などが入っているのは、珍しい動物が見つかったことが示されています。
「和銅」は銅の塊が国内が発見されたことによる改元で、日本最初の通貨である、和同開珎が鋳造されるきっかけともなりました。
これらはいずれも、奈良時代や平安時代初期の元号です。
この頃は、唐風文化を模倣することが流行していましたので、その結果として、中国の制度である、祥瑞による改元が盛んになっていたのでした。
災害による改元
やがて平安時代の中期になると、時勢が変化し、天変地異や災害、疫病、飢饉、反乱、怪異などを恐れる風潮が強まっていきます。
これは平安王朝や貴族文化が、衰退期に入りつつあったことが反映されているのだと思われます。
地方では武士が徐々に勃興し、939年の「平将門の乱」を初めとして、しばしば各地で反乱が起きるようになりました。
こうした危機的な状況下において、都では民衆のみならず、朝廷でも迷信がはびこるようになり、災害や反乱が起こるたびに、改元がなされるようになります。
たとえば水害が起きた年に、延喜は延長に改元され(923年)、地震や反乱にみまわれた際には、承平を天慶と改元(938年)したりしています。
元号を変えることで、悪い流れを変えられるのではないかと、そのように期待されていたのでしょう。
これは一種の、呪術めいた考え方だったのだと言えます。
祥瑞から災害・変事へと、改元のきっかけが変わったことによって、世相が変化したことがうかがえます。
このあたりから、改元は中国の制度を離れ、日本独自のものへと変貌していきます。
革命改元
この他には、「辛酉の年は革命の気運が高まる年なので、改元するべきだ」という説に基づく、「革命改元」があります。
これは中国の「陰陽五行説」に基づく思想で、これによって定められる、辛酉にあたる年には、「人の心が冷酷になり、天下に変事が起こり、革命が起きやすい」とされていました。
革命改元は、これを防ぐために、先んじて改元するべきだという提案を、漢学者の三善清行が行ったことがきっかけとなっています。
三善清行の提案
清行は、菅原道真に信任を受け、政務に携わるようになった人物でした。
清行は昌泰三年(900年)に、来年が辛酉の年にあたり、政情に変化が生じる可能性が高いと知ると、道真の身を案じ、政務から離れるように勧めました。
しかし道真はこれに耳を貸さず、その結果、罪を得て太宰府に左遷されてしまいます。
この事態を受け、清行は自分の考えが正しかったのだと確信し、朝廷に対して熱心に改元を勧めるようになりました。
道真の左遷という事件が、改元に新しい慣習を加えることにつながったのです。
革命改元が実施される
道真の件があったことから、朝廷も清行の説が正しいと判断をしたようで、901年に、昌泰から延喜に改元されました。
辛酉の年の改元は、その後も実施され続け、延喜・応和・治安・永保・永治・建仁・弘長・嘉吉・寛保・文久といったように、平安時代から幕末にまで、継続されることなります。
陰陽五行説は60年周期ですので、これらの元号は、60年ごとに定められました。
901年を起源として、961年(応和)、1021年(治安)、1081年(永保)といった時期に改元されています。
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