元号(年号)の歴史と改元の仕組み

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江戸時代の伝達法

朝廷から改元の詔が出ると、それが幕府に伝えられます。

すると幕府は諸大名と役人たちを江戸城に出仕させ、老中が列座する中で、新しい元号を伝達します。

これを受け、諸大名と役人たちは、それぞれの管轄地に布告することが、慣例となっていました。

このことから、一般に広く元号が知れわたるようになったのは、江戸時代からだったとされています。

一世一元の制

中国でも日本でも、元号は一代の間に、何度も変わるのが当たり前でした。

しかし中国では、明の太祖・洪武帝(在位1368-1398年)が一世につき一元と定め、頻繁に改元されることはなくなります。

洪武帝の「洪武」が元号であり、以後は元号名で皇帝を呼ぶのが慣習となります。

これは皇帝の権力が絶対化し、生きている間は世を変わらず支配する、という意志が表されたのだと言われています。

以後はこの制度が引きつがれ、清代においても同様となりました。

日本の一世一元

日本では、明治元年(1868年)に一世一元が定められました。

明治元年の9月8日に、「これまでは吉凶のことが発生するに従い、たびたび改元をしていたが、今より一代一号に定められた」という行政官の布告がなされています。

この年に起きた明治維新によって、天皇が将軍にかわって権力を握るようになりますが、それにともない、天皇の威信を回復・強化させるために、このような措置が取られたのだと思われます。

明以降の中国の改元の制度に関する情報も、入って来ており、その影響も受けていたことでしょう。

さらに明治22年、皇室典範を定める際に、「践祚せんそ(天皇位の継承)の後、元号を建て一世の間に再び改めざること、明治元年の定制に従う」とされました。

また、明治42年には登極令が制定され、「天皇践祚の後は、直ちに元号を改む。元号は枢密顧問に諮詢しじゅん(意見を求めること)した後、これを勅定する」とされ、法的な根拠を持つようになります。

敗戦によって法的な根拠が消滅する

その後は大正、昭和と続きましたが、昭和20年に、日本は第二次世界大戦に敗北します。

敗戦後に皇室典範が改正され、元号の法的な根拠は失われました。

そして昭和を廃止し、元号をなくそうとする提案がなされます。

これは天皇が、敗戦と憲法の改正により、国家主権を喪失したことによって起こった反応だと思われます。

「新日本元年」を定め、以後は西暦のように改元せず、ずっと継続していったらどうか、といった案や、西暦を使用する案が出されました。

しかし結局は、1950年に朝鮮戦争が勃発したことで議論は低調となり、ひとまずは昭和と西暦を併用することで事態が落ち着きます。

元号法によって一世一元が復活する

その後、1979年になると「元号法」が制定され、元号が政令で定められることや、皇位の継承があった場合に限り、改められることになりました。

これは昭和天皇が高齢となり、健康が不安視されるようになったことに起因しています。

この法律によって、一世一元の制が継続されることになりました。

この時の世論調査では、国民の87.5%が元号を使用していると回答したため、それによって元号制度が維持されることになったのでした。

この結果として、平成・令和と、元号が引き続き用いられることになります。

ちなみに、2019年の時事通信による世論調査では、元号の使用率は54.9%となっており、1979
年に比べると、だいぶ低下傾向にあることがわかっています。

高年齢層では元号の方が使用率が高いものの、10〜30代では元号と西暦が拮抗しており、西暦が浸透していることがうかがえます。